主日礼拝

共に苦しみ、共に喜ぶ

「共に苦しみ、共に喜ぶ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; エゼキエル書 第34章11-22節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第12章12-26節
・ 讃美歌; 4、202、393

 
体の多様性と統一性
 先々週の礼拝において、コリントの信徒への手紙一の第12章4~11節を読みました。そこには、私たちそれぞれに、聖霊なる神が、 様々に違った賜物、務め、働きを与えていて下さること、そしてそれは私たちが個々バラバラに何かをしていくためではなく、全体の、 つまり主イエス・キリストという頭のもとに召し集められたキリストの体である教会の益となるためのことだ、ということが教えられて いました。つまり、教会における、一人一人の違いと統一性、個人個人の個性と、そこにある一致ということが、ここのテーマなのです。  本日の12節以下は、そのことを「体」という喩えを用いて語っていきます。12節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべて の部分の数は多くても、体は一つであるように」とあります。これは、私たちにもよくわかることです。私たちの体は全体で一つです。 しかしその一つの体が、無数と言ってもよい様々な違った部分から成り立っています。この後出てくる、足や耳や目や手だけを考えても、 それぞれに全く違う形や働きをしています。しかしそれらのものがバランスよく配置され、それぞれの働きをすることによって、 私たちは普通に生きていくことができるのです。足や耳や目や手というのは、体の表面に現れた、目立つ部分ですが、体にはもっと 目立たない、しかしなくてはならない部分が沢山あります。脳や内臓などはそういうものですし、筋肉や骨、血管や皮膚なども、 それぞれに全く違った、しかし欠くことのできない働きをしています。それらの全てが、もともとは一つの受精卵が細胞分裂を繰り 返しながら形成されてきたものであるわけで、そのようにそれぞれの部分が、それぞれの機能を持つものとして、それぞれの場所に 形造られていくための情報が、DNAと呼ばれる遺伝子の中に全て含まれているというのですから、これは驚くべきことです。そこに、 神様のすばらしいみ業を感じるのは、非科学的なことではなくて、むしろ生命の神秘に対する人間の自然な畏敬の念だと言えるでしょう。 人間の体というのは、驚くべき多様性と、驚くべき統一性を持った、神様の最高傑作であると言うことができると思います。パウロは そのことを見つめつつ、それを、教会のことを語るための喩えとして用いているのです。

キリストの体である教会
けれどもパウロはここで、私たちの体がこうであるように教会も…、とは言っていません。「キリストの場合も同様である」と言われています。 語られているのは確かに教会のことなのですが、「キリストもそれと同じだ」と言っているのです。このことは、本日の箇所を理解するために 非常に大事なポイントとなります。つまりパウロはここで、一つの体が多くの部分から成っているということを、教会のことを説明するための 単なる喩え、比喩として語っているのではなくて、「キリストの体」という一つの具体的な体を見つめているのです。教会はキリストの体です。 それは、そのように喩えられる、ということではなくて、まさに教会こそキリストの体であり、そこに連なる私たちは文字通りその部分なのです。 体というのが単なる喩えであるならば、そこで語られているのは、「我々は一心同体だ」ということと同じです。要するに、みんなで力を合わせて 一つの目的に向かって努力しよう、ということが言われていることになります。しかしパウロはここでそういうスローガンを掲げているのではあり ません。パウロが語っているのは、「私たちは一つのキリストの体へと結び合わされ、その部分となっている」という事実です。そしてそのことが どのようにして実現したのかを語っているのが、次の13節なのです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア 人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。ここには、 洗礼のことが語られています。「皆一つの体となるために洗礼を受け」とあります。ここは直訳すれば、「皆一つの体へと洗礼を受けた」あるいは 「浸された」となります。「洗礼を受ける」というのは「浸される」という意味の言葉です。洗礼を受けることによって私たちは、一つの体、 キリストの体へとどっぷりと浸され、その一部となるのです。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者 であろうと」とあります。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由な身分の者というのは、当時の社会において、全く相容れない、水と油の関係 の代表です。そういう、人間的に見れば全く一つになれない者たちが、洗礼を受けることによって、一人の主イエス・キリストに共に浸され、 一つの体の部分となっているのです。そしてそれは「一つの霊によって」だと言われています。私たちが洗礼においてキリストの体の部分となる のは、私たちの決意や意志によってはなくて、聖霊のお働きによるのです。洗礼は私たちの決意表明の印ではなくて、神様が、聖霊によって私たち をキリストへと浸し、その体の部分として下さることの印なのです。しかもそこで働くのは「一つの」霊です。私もあなたも、あの人もこの人も、 同じ一つの聖霊によって、キリストの体の部分とされているのです。そこに、私たちの一致の根拠があります。私たちが一つであるのは、私たちの 思いや意識が一つであるからではなくて、洗礼において私たちをキリストの体へと浸した聖霊が一つであるからなのです。「皆一つの霊をのませて もらったのです」というのもそれと同じことを言っています。「飲む」という言葉で言い表されているのは、聖霊が私たちの外側にいて働いて下さ るのみでなく、私たちの内に宿って下さり、内側から私たちを作り変えて下さるということでしょう。またこの「飲む」という言葉は、聖餐におけ る杯をも連想させます。洗礼においてキリストの体へと浸された者が、聖餐においてキリストの体と血とにあずかりつつ生きるのです。そのように して私たちは、文字通りキリストの体の部分となって歩むのです。

キリストの体の部分として
 それゆえに、14節以下に語られていくこと、一つ の体は多くの部分から成っているのだから、例えば足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」などと言うことはできないし、目が手に向 かって「お前は要らない」とは言えないのだ、ということも、単なる比喩ではありません。これを比喩として読むならば、ここにいろいろと語られ ていることは結局、「お互いに他の人のことを尊重しながら仲良く一緒にやっていきましょう」という抽象的、道徳的な教えに解消されてしまうので す。しかし、ここに語られているのは、抽象的な単なる道徳ではなくて、教会における、キリストの体の部分としての私たちの関係の具体的なあり方 なのです。それを一つ一つ具体的に見ていきたいと思います。

劣等感を乗り越えて
 15、16節の、足が「わたしは手ではないから、体の一部ではない」、耳が「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言うというのは どのようなことなのでしょうか。一つの理解においてはこれは、足や耳が、手や目に対して劣等感を抱き、僻んで言っている言葉だと言われます。 人と自分とを見比べて、人に与えられている賜物や力の方が自分よりも優れていると感じ、どうせ自分はあの人にはかなわない、私なんか役に立た ないんだ、と僻み、いじけてしまうのです。そういう気持ちは私たちの誰もが抱くことがあると思います。マタイによる福音書の第25章に、主 イエスがお語りになった「タラントンの喩え」と呼ばれる喩え話があります。主人が僕たちにそれぞれある金額のお金を預けて旅に出るという話で す。あの話で、ある僕には5タラントン、ある僕には2タラントンが預けられましたが、1タラントンを預けられた僕は、それを用いずにただ土に 埋めておいたのです。彼が抱いたのはこの僻みの思いだったと考えてよいでしょう。このタラントンという言葉から、タレント、即ち才能、能力と いう言葉が生まれたのですが、彼は、あの人には5タラントン、この人には2タラントンが与えられているのに、自分は1タラントンだけだ、どう せ自分にはちっぽけな才能しか与えられていない、主人に認められていないんだ、と僻んで、預けられた1タラントンを生かさず、土に埋めてしま ったのです。私たちも、人と自分を見比べているとそのような思いに捕えられます。「隣の芝生は青い」と言いますが、それは持ち物、財産だけの ことではない、人に与えられている賜物、能力や働きは立派に見える、それに比べて自分の賜物、能力はちっぱけな、役に立たないものに思えてし まうのです。そのような僻み、いじけの思いに対してパウロは、17~20節でこう言います。「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。 もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つ の部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです」。みんなが同じである必要 はない、みんなが同じ働きをするようになってしまったら、体というものは成り立たないではないか。私たちそれぞれに、それぞれなりの賜物、力、 働きが与えられているのだ。それは神様が、様々な違った者たちによって一つのキリストの体を作り上げようとしておられるからなのだ。だから、 自分に与えられている賜物を人のそれと比べて優劣を競うことはない。神様から与えられた自分の賜物を精一杯用いていけばそれでよいのだ、 ということです。あのタラントンの喩えにおいても、1タラントンというのは、実は一人の労働者のほぼ20年分の賃金に当たる金額なのです。 つまりそれは決してちっぽけなものではないのです。神様は私たちそれぞれに、最も少ない人でもそのように豊かな賜物を与えて下さっている、 というのがあの喩え話のミソです。それなのに、自分の賜物を人と見比べてしまうと、私たちは与えられている賜物の豊かさに気づくことができ なくなってしまうのです。

弱い部分を大切になさる神
 21節には今度は、目が手に向かって「お前は要らない」、頭が足に向かって「お前たちは 要らない」と言うことが語られています。これも同じように、自分と人とを見比べていく中で起こることですが、先程とは逆に、人の賜物や働きを価値の ないもの、役に立たないものとして批判し、軽んじることです。これもまた、私たちの中でしばしば起こることです。ただ、先程のいじけや僻みと比べて、 こちらの方はあまり意識されないかもしれません。いじけや僻みは、自分がいやな思いをすることです。私たちはそのことには非常に敏感ですから、少し でもそういうことがあるとすぐに「傷ついた」と思うし、いつまでもそれを覚えています。しかし「お前は要らない」と言う方は、人を傷つけることです。 私たちはそのことには非常に鈍感ですから、自分では意識せずにそういうことを言っていることがよくあります。言っている人は気づかなくても、聞いた人が 「お前は要らない」と言われたと思うことがよくあるのです。そしてそれは、そんなふうに聞く人が悪いのではなくて、やはり言っている人の思いの中に、 人の働きにケチをつけ、批判し、「こんなのダメだ」という思いがあるから起ることです。そういうことに対してパウロは22節以下でこう言っています。 「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、 もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする 部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。ここでも「体」ということ が大事な役割を果たしています。私たちは、自分の体の中で、見劣りがする部分、弱い部分があるとしても、それは要らないと言って切り捨てたりはしな いのです。むしろ、そういう所は服で覆って見栄えよくしたり、弱いところは他の部分の働きによって補っていくのです。一つの体というものはそのよう にして成り立っているのではないか、とパウロは言います。それだけではなく、神様は、キリストの体を作り上げていく時に、むしろ見劣りのする部分 をこそいっそう引き立たせようとしておられるのだ、ということが24節に語られています。ここに、私たち人間の思いと神様の思いとの違いがあります。 私たちは、優れたもの、能力のあるもの、美しいものを大事にします。そういうものによって事を成していこうとするし、自分自身もそういうものになろう とするのです。しかし神様は、むしろ弱い者、見劣りのするものをこそ慈しみ、大事になさるのです。能力、技術、あるいは理解力、その他様々な力において、 劣っている者の方を神様はより大事になさるのです。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのは、そういう神様のみ心によることです。もし も神様が、優れた者、強い者のみを愛し、そういう者を集めてキリストの体を造り上げようと思われたなら、キリストの十字架はいらなかったでしょう。 律法があれば十分だったのです。律法をきちんと守ることのできる強い者、優れた者だけを相手にしていればよかったのです。しかしそうだったら、私 たちの内の誰が救いにあずかれたでしょうか。私たちがこうして神様の救いへと招かれ、教会へと集められているのは、神様が、弱く、罪に捕えられている、 問題に満ちた私たちを、それゆえにこそかえって深く慈しんで下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によって救って下さったからです。キリストの体 はこの恵みによって形造られていくのです。それゆえに私たちは、同じ体に連なる他の部分を、特に自分よりも弱い、劣っていると思う部分を、むしろ大事にし、 自分の賜物によって補い支えていくようにしなければならないのです。25節の、「各部分が互いに配慮し合っています」というのは、そのような支え合い、 補い合いのことです。そうすることによって、体に分裂が起こらず、一つの体として全体が生かされていくのです。

共に苦しみ、共に喜ぶ
 これらのことをまとめて、26節には「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分 が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」 とあります。これも単なる比喩ではありません。これを比喩として読んでしまうと、結局、苦しみも喜びも互いに分け合っていこう、という抽象的な勧めに なってしまいます。しかしこれは「勧め」と言うよりもむしろ事実を語っている文章なのです。私たちは、体の中のほんの一部が痛んだだけで、それで体 全体の具合が悪くなり、元気がなくなってしまうことを知っています。歯が痛むだけで、手や足だってまともに動けなくなるのです。あるいは喜びにしても、 体のある一部分だけで喜ぶということはありません。喜びは体全体のものです。体というのはそれだけ一体性のあるものなのです。この事実は、キリストの 体である教会においても同じであるはずだとパウロは言っているのです。洗礼を受け、キリストの体に浸され、その部分とされた私たちの間にはそのよう な一体性があるはずなのです。そのためには、自分の苦しみや喜びに対して誰もが持っている敏感さを、他の人の苦しみと喜びにまで向けていかなければな りません。教会はキリストの体であるという教えは、信仰における一つの知識ではないのです。私たちはこの教えによって、教会における兄弟姉妹に対する心 の向け方を変えさせられていくのです。

一人でやっていけると思う傲慢  
ところで、先程、15、16節の、「わたしは~ではないから、体の一部ではない」という言い方について、これは他人と自分を見比べて劣等感を抱き、 いじけ、僻みに陥っている言葉だと申しました。しかしその時に、それは一つの理解だとも申しました。ここでパウロが語っているのは、そういう思いの ことではないのかもしれない、という理解もあるのです。というのは、パウロはこれをコリントの教会に向けて書き送っているわけですが、コリント教会 において起っていた問題は、僻みやいじけではなくて、むしろ傲慢、高ぶりだったからです。この手紙を読んでいくと、コリント教会の人々が、いろい ろな点で、自分に自信を持ち、誇っていたことがわかります。僻んだりいじけたりしていることは伺えないのです。ですから、先程のような読み方は、私 たちの間では大いに当てはまるところがあるけれども、この手紙の本来の意味は違う所にあったのではないだろうか、と思われます。それではどういう意 味なのかというと、実はこれも誇りの言葉なのです。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言って誇っているのです。それは、「私 は手なんかとは違うんだ」ということです。「私は手なんかとは違って、体の一部ではない。私は、体の一部にならなくても、私一人でちゃんとやって いける」、そう言っているのです。つまりこれは、体の一部として、他の部分と共に一つの体を構成していくことを拒み、自分一人で、他の人なしにや っていこうとする、やっていけると思っている、そういう傲慢の姿なのです。「お前は要らない」と言うことが、人を教会からはじき出そうとすること であるのに対して、こちらは、自分が教会から離れて一人でやっていこうとすることなのです。そういうことは私たちの間では見られない、と思うかも しれませんが、そうとばかりは言えないと思います。教会から離れると言っても、もう教会に来なくなる、ということではありません。教会で礼拝を守 りながら、しかし兄弟姉妹との関わりを拒み、自分一人で信仰者としてやっていこうとするのです。それは、信仰を、自分と神様との間だけの事柄とし てとらえ、兄弟姉妹と共にキリストの体を形造ろうとしない、ということです。あるいは、教会における何かの働きを担っている者が、これは自分の働 きだから誰も口を出すなと言って、全てを自分一人の思いでしてしまい、その働きに他の人を参加させなかったり、他の人の意見を聞こうとしないとい う場合、それもまた、キリストの体の部分として生きることを拒否しているのです。これらのことは、私たちの間でも案外多く見られるのではないでし ょうか。つまり教会に連なってはいても、キリストの体の部分として生きようとしない、ということもあるのであって、パウロはそれを戒めているのです。

キリストの体の部分であるという自覚
 このように考えてくると、パウロがここで語ろうとしている最も大事なことは何かが明らかになってきます。それは即ち、キリストの体の部分として、 他の兄弟姉妹と共に歩むことです。教会においてどんなよい働きができるか、ということが大事なのではないのです。神様は、私たちが、どんなに弱い、 みすぼらしい、見劣りがする者であっても、他の兄弟姉妹と共にキリストの体の部分として生きることをこそお喜びになります。反対に、どんなに優れた 能力を持ち、立派な奉仕をすることができるとしても、それが自分一人の、個人プレーになってしまい、兄弟姉妹と共に歩むことになっていないならば、 神様はそのような働きをお喜びにはならないのです。26節の、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべて の部分が共に喜ぶ」という言葉も、このことと関係しています。自分の苦しみや喜びに対して持っている敏感さを、他の人の苦しみと喜びにまで向けて いかなければならない、と申しました。しかし実はそれだけではなくて、私たちが、自分の苦しみや喜びを、キリストの体の部分として、兄弟姉妹と共 に歩む中で苦しみ、喜んでいるかということが大切なのです。そうなっていて初めて、他の人もその喜びを共に喜び、苦しみを共に苦しむことができ るのです。一つの部分が尊ばれることを皆が共に喜ぶことができるのは、その尊ばれる働きが個人プレーではなく、兄弟姉妹と共に歩む中での働きと なっていればこそです。自分一人の業として何かの業績をあげ、それを他の人が共に喜ばないと言って批判するのでは意味がありません。ここにおいて も大事なことは、人に尊ばれるような業績を上げることではなくて、キリストの体の部分としての自覚、姿勢を持って、他の部分である兄弟姉妹と共に 歩むことなのです。そのように歩む所にこそ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜 ぶ」というみ言葉が現実となるのです。

主の牧場の羊の群れ  
本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、エゼキエル書第34章11節以下を選びました。 ここに描かれているのは、主なる神様が羊飼いとして養っておられる羊の群れです。そこにはいろいろな羊がいます。肥えた羊もいれば、やせた羊もおり、 強い羊も弱い羊もいます。その群れにおいて何が起っているか。肥えた、力の強い羊が、神様が与えて下さった牧草地を好き勝手に踏み荒らし、自分たち だけ済んだ水を飲んで、残りを足でかき回し、後から来る弱い羊には泥水を飲ませるようなことが起っているのです。強い羊が弱い羊を押しのけ、角で突 き飛ばし、外に追いやるようなことが起っているのです。そこで神様はこう宣言なさいます。15、16節です。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせ る、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えた ものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。この、まことの羊飼いとしてこの世に来て下さったのが主イエス・キリストです。教会は、 この主イエス・キリストの恵みによって集められ、養われている群れなのです。このことを本当にわきまえるならば、私たちの、お互いどうしに対する思い、 接し方、交わりは、もっともっと変わっていくはずなのです。

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