「私を裁くのは主」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 詩編 第139編1-24節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第4章1-5節
・ 讃美歌 ; 2、166、469
人間の裁きと神の裁き
本日はコリントの信徒への手紙一の第4章1~5節からみ言葉に聞きます。この箇所に何度も出てくる、鍵となる言葉があります。それは「裁く」という言葉です。この手紙を書いたのは、初代の教会の最大の伝道者であるパウロですが、彼はここの3節で、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言っています。「あなたがた」というのは、この手紙の宛先であるコリントの教会の人々です。つまりパウロは、コリント教会の人々から裁かれるということを体験しているのです。「人間の法廷で裁かれようと」ともありました。私たちはこれをそのまま読むと、何かの犯罪の検疑で捕えられ、裁判にかけられることかと思ってしまいますが、そうではありません。そもそも「法廷」という言葉はここの原文にはないのであって、あるのは「人間の日」という言葉です。日とは一日二日の日です。「あなたがたから裁かれようと、人間の日に裁かれようと、少しも問題ではない」と言っているのです。どうして「日」という言葉が突然出てくるのか、不思議に思いますが、それはこの手紙の3章13節にあった「かの日」という言葉と関係があると思われます。そこには、それぞれが様々な素材を用いて建てた家が、「かの日」には、火によって試され、燃え尽きてしまうか、それとも燃えずに残るかが明らかになる、ということが語られていました。つまり「かの日」というのは、この世の終わりに、神様が全ての者をお裁きになるその日のことです。つまりここでの「日」は「裁きの日」のことなのです。「かの日」は神の裁きの日です。それに対してここでは、人間が裁く日である「人間の日」が見つめられているのです。つまりパウロはここで、あなたがたによる裁きと、人間の法廷における裁きという二つの裁きを見つめているのではなくて、あなたがたの裁きは人間の裁きであって、かの日の神の裁きではない、神の裁きを自分は恐れるけれども、人間の裁きは私にとって少しも問題ではない、と言っているのです。
人間による裁き
しかしそれは裏を返せば、コリント教会の人々による裁きを彼は受けていたということです。そしてそれは問題でないどころか、パウロにとって大きな悩みだったのです。教会の人々が自分のことを裁いている、また、パウロのことのみでなく、お互いに裁き合っている、ということを彼はこの手紙で大いに問題にしているのです。しかしそもそも、パウロがコリント教会の人々から裁かれるというのはどういうことなのでしょうか。パウロはコリントに初めてキリストの福音を伝えた、この教会の設立者です。そのパウロのことを、この教会の人々が裁くなどということがどうして起るのでしょうか。
今申しましたように、パウロが最初に伝道をしてこの教会が生まれたのですが、これまで読んできたところに示されていたように、彼がコリントを去った後、いろいろな指導者が来てこの教会を指導しました。そのような中で、パウロの教えに批判的なグループも生まれてきたのです。そのような人々から、パウロはいろいろに批判され、中傷を受けたようです。一番ひどいのは、パウロは自分のことをキリストに遣わされた使徒だと言っているが、あいつはもともと主イエスの弟子だったわけではなく、むしろ教会を迫害していた者ではないか、そんなパウロが使徒などと言うのはおかしい、とまで言われたのです。そのことは、コリントの信徒への手紙二に出てきます。そのような批判が、この第一の手紙が書かれた時点で既に始まっていたのかもしれません。力のある指導者であればある程、批判もまた強くなる、というのは人間の常です。教会においてもそういうことがあります。パウロはいつもそのような、教会の中から起こってくる批判、裁きにさらされていたのです。そういう中で彼は「私はあなたがたに裁かれても、そういう人間の裁きを受けても何ら問題にしない」と言っている、そういう強い信念を持って生きているのです。そこに、パウロのまさに使徒たるゆえんがあります。どんな批判を受けてもたじろがない不屈の指導者としてのパウロの姿がここにあると言えるでしょう。
しかしここでパウロが言っていることをそのようにだけ理解してしまうのは不十分だと思います。パウロが「あなたがたから裁かれる」と言う時に念頭に置いているのは、自分を批判し、敵対する者のことだけではありません。コリント教会には、パウロを批判し、敵対する者もいたけれども、逆に彼を慕い、師と仰いでいる人々もいたのです。そのような人々は「パウロ派」というグループを作っていました。そしてその他に、アポロ派、ケファ派、さらにはキリスト派というのまであって、それらのグループ、党派が対立し合っていたということが、1章12節に語られていました。もしもパウロが、自分を批判している者のことだけを念頭に置いて「あなたがたから裁かれようと問題でない」と言っているのだとしたら、パウロ自身がこの対立の構図の中に巻き込まれていることになります。アポロ派やケファ派やキリスト派の人々は自分を裁いているが、パウロ派の人々は理解してくれている、味方になってくれている、ということになるのです。しかしパウロがここで考えているのはそういうことではありません。彼が「あなたがたから裁かれようと」と言う、その「あなたがた」には、自分を慕い、自分の名のもとにグループを作っている人々のことも含まれているのです。パウロ派の人々もまた、わたしのことを裁いている、彼はそう考えているのです。
党派争いの原因
つまり、裁くということの意味が問題です。裁くというのは、批判する、とイコールではありません。裁くとは、判断すること、判決を下すこと、白黒をつけることです。そういう意味では、パウロを支持する人も、批判する人も、同じように彼を裁いています。ただその結論が白か黒かが違うだけです。パウロに対して白と判断する人はパウロ派を作り、アポロに対して白と判断する人はアポロ派を作るのです。そのようにして党派が生まれます。そして、パウロを白と支持する人はアポロを黒として批判します。アポロやケファを白とする人はパウロを黒として批判します。そのようにして党派争いが生じるのです。パウロは、このコリント教会内の党派争いの現実を見据えながらこの手紙を書いています。党派争いが起る原因は、一つには、人間を誇る思いです。パウロとかアポロとかケファとかの指導者に結び着くことで信仰的により高くなり、自分の誇りを満足させようとする、という思いから党派が生まれるのです。そのことが3章において語られてきました。4章に入って、もう一つ見つめられているのが、この「裁く」ということです。あなたがたは裁こうとしている、それによって党派が生まれるのだ、とパウロは言っているのです。ですからこれは、パウロのことを支持するか批判するかという問題ではありません。支持だろうと批判だろうと、あなたがたは自分が裁こうとしている、そこに問題があるのだということです。それゆえにパウロは、「あなたがたから裁かれようと」に続いて「人間の日の裁きを受けようと」と言うのです。あなたがたが裁こうとする、それは人間の裁きだ。しかし人間は本当に裁くことができる者ではない。本当の裁きは、かの日に、主イエス・キリストによってなされる。その「かの日」が来る前の、人間の日に、人間が裁こうとすることは、人間の越権行為だ。そういう越権行為によって、党派争いが生まれる。私たちは、自分が裁く者になるのではなくて、かの日の主の裁きに委ね、それを待つ者であるべきだ。それが、4節後半から5節にかけてパウロが教えていることなのです。「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の詩編139編を意識した言葉です。神様は、私たちの心の中の隠されたところまで、全てを見ておられる、そのような方として、終わりの日に私たちを裁かれるのです。それまでは、私たちが先走って裁く者になってはならないのです。
本当の裁き手
そしてそうであるならば、3節でパウロが、「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言っていることの意味も明らかになります。これは、自分はどんな裁き、批判を受けても気にしない、へっちゃらだ、と言っているのではありません。事はパウロが気にするかどうか、平気かどうかという問題ではなくて、自分を本当に裁く者は誰か、ということなのです。それは、人間ではなく、主イエス・キリストだ、だから、本当の裁き手でない人間のする裁きには何の意味もない、それによって左右されることはないし、あってはならない、とパウロは言っているのです。人間の裁きが気にならないかというと、そんなことはありません。パウロも、そういうことに非常に敏感でした。自分が語っている福音が人々にどのように受け止められているか、人々が自分の働きをどう思っているか、が気にならないということはないのです。しかしパウロは、その中で、人間の裁きは根本的には何の意味もないものだ、それによって左右されることがあってはならない、という歩みを貫こうとして戦っているのです。
人間の裁きとの戦い
この戦いは、私たち一人一人においても切実なものです。私たちはいつも、人間の裁きの中で生きています。人間の裁きに左右され、翻弄されています。人が自分のことをどう思っているか、どう見ているかということをいつも気にしながら、人に少しでもよく思われたい、よく見られたいと思いつつ生きています。私たちの人生の全ての日は、まさに「人間の日」、人間の裁きの日なのです。そのように人の目を気にして生きることから解放されたいと私たちは思います。そうすればもっと自由に、自分らしく、おおらかに生きることができるだろうと思います。そして私たちの中の比較的強い人は、人がどう思おうと自分は自分の思いによって生きるのだ、と言って歩もうとするのです。パウロも、ある意味ではそのようにできる強い人の部類に入ると言えるでしょう。けれども、パウロのことをそのように、自分の信念に従って生きる強い意志をもった人、とだけ理解してしまったら、それは全く見当外れなことになるでしょう。パウロのここでの戦いは、それだけのことではないのです。3節の後半から4節の前半がそのことを示しています。こう言われています。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」。「自分で自分を裁くこともしない」と彼は言います。「自分で自分を裁く」というのはつまり、自分で自分のしていることがよいか悪いかを判定し、白黒をつけるということです。その結果「自分には何もやましいところはない」と思えれば、それはその人にとって大きな自信、支えとなるのです。私たちは、人の目、人間の裁きを気にすることから解放されたいと願う時に、このことに頼ろうとします。人の目、人間の裁きに左右されずに歩むためには、自分自身が、自分のしようとしていることについて確信を持っていなければならない、これは正しいことだという信念がなければならない、自分で自分を顧みてやましいところがない、と思えさえすれば、人が何と言おうと、どのように批判されようと、わが道を行くことができる。人間の裁きに翻弄されないためにはこれしかないと私たちは思います。ところがパウロは、自分で自分を裁くことすらもしない、と言っているのです。ということは、自分で自分をふりかえってやましいところがないということを頼りにすることをもしないということです。彼が、人間の裁きを気にせずに、信念に従って力強く生きているのは、自分をふりかえってやましいところがない、自分は正しいという信念によることではないのです。
自分を裁くこともしない
何故彼は自分で自分を裁くこともしないのでしょうか。それは、自分を本当に裁く方が別におられることを知っているからです。自分を本当に裁くのは自分自身ではない、自分の良心ですらもない、だから、人の裁きだけでなく、自分自身による裁きも、何の意味もないものであり、それに左右されるべきではないものなのだ、ということを彼は知っているのです。人間の裁きからの自由、解放は、ここまでいかなければ本物ではありません。良心にてらして何もやましいことはないから、人の目、人間の裁きは気にしない、というだけでは十分ではないのです。なぜなら、良心の判断が必ず正しいという保証はどこにもないからです。ですから、人間の裁きを気にせずに、信念に従って力強く生きるというのは、下手をすれば、人の意見を無視して自分の思いを強情におし通していく、ということになりかねないのです。人の裁きから本当に自由になって生きるためには、自分自身による裁きからも解放されなければなりません。自分で自分を裁き、判定し、白黒をつけ、それによって満足したり、不安を覚えたりすることをやめなければ、人の目を気にして生きることからも、本当に解放されることはないのです。
主イエス・キリストによる神の義
パウロは、自分で自分を裁くことからも解放されています。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」という言葉がそれを示しています。自分で自分をふりかえって、やましいことは何もないと思うとしても、それは、神様の前で自分が義とされていることでは全くないのです。神の前での義、正しさ、即ち救いは、自分で自分の正しさを確かめることによって得られるものではありません。神の義は、神様から恵みとして与えられるのです。それを与えて下さるのは主イエス・キリストです。神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しのための犠牲となって下さったことによって、このキリストによる救いを信じる者に、神の義が、恵みとして与えられるのです。私たちが義とされるのは、この信仰のみによってです。それは人の評価や判断によるのでもなければ、自分で自分をふりかえってやましくないと思うことによるのでもないのです。この、神の恵みによって与えられる神の義、キリストによる救いを与えられたから、パウロは、人間の裁きは問題でない、自分で自分を裁くこともしない、と言うことができるのです。つまり、人間の裁きによって左右されることからの解放、自由は、自分の中に確かな自信や正しさの確信を持つことによってではなくて、主イエス・キリストによる神の義をいただくことによるのです。
神の秘められた計画を委ねられた管理者
主イエス・キリストによる神の義をいただいて生きる者は、人のことも自分のことも、自分で裁くことをやめます。裁く方は主イエス・キリストお一人なのです。私たちの最大の問題は、自分が裁き手になろうとすることです。そのことから、党派争いが生まれるし、また自分が裁こうとしている者は、人から裁かれることを恐れてビクビクしながら生きることになるのです。それに対して、自分で裁くことをやめたパウロは、そのような裁き合いから解放されて、新しく生きることができるのです。その新しい生き方とはどのようなものでしょうか。それが本日の1、2節に語られています。「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」。パウロは自分のことを「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っています。この「仕える者」という言葉は、「下で漕ぐ者」という意味です。「ベン・ハー」という映画に出て来るような、ガレー船を漕ぐ奴隷たちのことを思い起こせばよいのです。パウロは、自分はそういう者だと言っているのです。それはつまり、自分は裁く者ではない、判断する者ではない、裁き、判断するのはキリストであって、自分はただキリストに命令された通りに漕ぐ者なのだ、ということです。自分で自分を裁くこともしないというのはこういうことです。つまり、主人であることをやめてキリストの奴隷になるということです。しかしキリストの奴隷となった彼は、鎖につながれて鞭で打たれながら絶望の日々を送っているのではありません。彼は自分のことを、「神の秘められた計画を委ねられた管理者」だと言っているのです。「管理者」というのは、主人から家の管理を委ねられた家令のことです。主人に信頼され、財産を委ねられ、家の切り盛りを任されているのです。彼が委ねられている財産、それは「神の秘められた計画」です。この言葉は2章1節にもありました。パウロはこの「神の秘められた計画」を宣べ伝えたのです。その内容は十字架につけられたキリストです。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、そのキリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって神様は私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さる、そういう驚くべき救いのご計画が「神の秘められた計画」です。キリストの奴隷となったパウロは、この神様の恵みの大いなる財産を委ねられ、その恵みを宣べ伝える者として立てられ、遣わされているのです。
忠実な管理者として
家の管理を委ねられた管理者、家令として、彼がいつも心に留めていること、それは主人に忠実であることです。主人の意志に従って家を管理するのが管理者の務めです。つまりここにも、自分は裁く者ではない、裁く方は別におられるということが意識されているのです。そのように、本当の主人、裁き主を意識して、その方に忠実な管理者として生きようとする所に、人の目、人間の裁きに左右されない、自分で自分を裁くこともしない新しい生き方が生まれるのです。主イエス・キリストの僕として、その十字架による救いの恵みを委ねられた管理者として生きることこそ、私たちキリスト信者の生活です。そこでこそ私たちは、人の裁き、評価、批判に左右されずに、また自分で自分のことを判断することからも、また、他の人を先走って裁くことからも解放されて、本当の裁き主である主イエス・キリストに委ねて生きることができるのです。
主イエスによる裁きを待ち望む
主イエス・キリストこそ、かの日に私たちを裁かれる方です。そしてそのキリストは、私たちのために、私たちの罪を背負って、既に十字架にかかって死んで下さった方です。この主イエス・キリストがまことの裁き主であられることに、私たちの喜び、希望があります。5節の「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」という裁きの描写は、私たちに恐怖を覚えさせることでもあります。主イエスの目には何事も隠しておくことはできない、私たちがどんなに自分を取り繕って立派に見せようとしても、私たちの本当の姿を主は全てご存じなのです。しかしパウロは、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」と言っています。つまり、主イエス・キリストによる裁きを恐れているのではなく、それを喜んで待ち望んでいるのです。それは、彼が自分の良心に照らして何もやましいところがないからではなくて、自分を裁く方が主イエス・キリストだからです。またそこには「おのおのは」とあるように、主イエスを信じ、教会に連なる人々は皆、神様からおほめにあずかることが見つめられているのです。それは、彼らを裁く方がやはり主イエス・キリストだからです。「かの日」に、私たち全ての者をお裁きになるのは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストなのです。この方に仕え、この方と共に生きる私たちは、この方がもう一度来られて全ての者をお裁きになる「かの日」を待ち望みつつ、喜びと希望に生きることができるのです。