「苦難、忍耐、練達、希望」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第34編1-23節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章1-11節
・ 讃美歌:271、127、461
信仰による義の与える実り
新しい年、主の2016年を迎えました。私たちは新年に「あけましておめでとうございます」と挨拶し、新しい年を迎えたことを共に喜び祝い、希望をもってこの年を歩み出したいと願っています。しかし今私たちを取り巻いているこの社会の現実は、希望よりも先行きへの不安の方が大きいと言わざるを得ません。今年この国に、また世界に、どのようなことが起こるのか、私たちは期待よりも不安を抱きながら新しい年を迎えています。しかしその年頭の主日に私たちはこのように主なる神様のみ前に出て礼拝をすることを許されています。それは大きな恵みだと思います。今年もこの主の日の礼拝から主の日の礼拝へと、主のみ言葉を聞き、主の導きをいただきつつ歩んでいきたいと思います。
今私たちは主日礼拝において、ローマの信徒への手紙を読み進めています。前回は12月の第一主日、アドベントの第二主日でした。その日にも本日と同じ第5章1?11節を読んだのです。第5章の冒頭の1節前半に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」とあります。この手紙を書いたパウロは3章21節から4章にかけて、「わたしたちは信仰によって義とされた」ということを語ってきました。「義とされた」は「救われた」と言い換えてもよい言葉です。信仰によって救われた、ということをパウロは語ってきたのです。「信仰によって」とは、「良い行いによってではなく」ということを意味しています。私たちは、良い行いをして清く正しい立派な人になることによってではなく、ただ信仰によって救われるのです。「信仰によって」を、「信仰という良い行いによって」と考えてしまってはなりません。「良い行いによってではなく」には、信じる、信仰者になる、という良い行いも含まれています。神を信じて従う者となる、ということも含めて、私たちのなすいかなる良い行いによってでもなく、ただ神の恵みにのみによって救いを与えられる、その救いを信じて、「有り難うございます」と言ってそれをいただくことが信仰である、というのが「信仰によって義とされる」の意味です。このことこそ、パウロが語っている福音、喜ばしい知らせ、救いの知らせなのです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」という1節から始まる第5章には、この「信仰によって義とされた」私たちにはどのような歩みが、生活が与えられていくのか、信仰による義の与える実りは何か、が語られています。そこにおいて真っ先に見つめられているのは、1節後半の「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」ということです。イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた私たちは、神との間の平和を与えられているのです。このことを12月の第一主日に聞きました。アドベントからクリスマスにかけては、平和という主題でみ言葉に聞いてきましたが、人間どうしの間に平和を築いていくための土台として、信仰によって義とされた者に神との平和が与えられていることを前回この箇所から示されたのです。
苦難、忍耐、練達、希望
このように前回、12月第一主日には、「神との間の平和」ということに焦点を当ててこの箇所を読みました。それゆえに前回の説教においては、この箇所の3?5節には全く触れませんでした。本日はその3?5節を中心にみ言葉に聞きたいと思います。そこにはこのように書かれています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。冒頭に「そればかりでなく」とあることから分かるように、これも「信仰によって義とされた」ことによって私たちに与えられている恵みです。信仰によって義とされ、イエス・キリストによって神との間に平和を得た者は、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むような歩みを与えられ、それゆえに苦難をも誇りとすることができるのです。本日はこのことをじっくりと見つめることによって、不安に満ちているこの新しい年を信仰をもって生きていくための導きを与えられたいと思います。
パウロはここで、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、そして練達は希望を生むことを「私たちは知っている」と言っています。この「知っている」とはどういうことでしょうか。それは世間の常識であり、世の中の人は皆知っているということではないでしょう。私たちが知っている諺や教訓にも、確かにこのようなことを語っているものがあります。「艱難汝を玉にす」とか「若い時の苦労は金で買ってもしろ」などです。これらの諺や教えが語っているのは、苦しみによって人は鍛えられ、進歩していくのだから、苦しみを避けるのでなく、それを試練、訓練の時として積極的に受け止めなさい、ということです。パウロがここで語っているのはそれと同じことなのでしょうか。そうではありません。苦しみによって鍛えられて成長するというのは、確かにそういうこともあるでしょうが、必ずそうなるという保証はありません。苦しみによってかえって押しつぶされ、だめになってしまうことだってあります。だから苦しんでいる人に向かって「艱難汝を玉にす」だ、試練として受け止めなさい、と言うのはそれだけではまことに無責任なことです。パウロがここで語っているのはそのような一般論ではありません。「私たちは」そのことを知っていると言っているのです。その「私たち」とは、「信仰によって義とされた私たち」です。主イエス・キリストを信じて、神の救いの恵みにあずかり、神との間の平和を得た私たちは、苦難は忍耐、忍耐は練達、そして練達は希望を生むことを知っている、とパウロは言っているのです。つまりこれはまさに、信仰によって私たちに与えられている恵みなのです。
希望が与えられているから
イエス・キリストを信じる信仰によって、どのようにしてこの恵みが与えられるのでしょうか。それを知るためには2節とのつながりを見なければなりません。2節には「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とありました。これに続いて「そればかりでなく…」と3節が語られているのです。ですから「そればかりでなく」の「それ」とは2節の「神の栄光にあずかる希望を誇りとしている」ことです。神の栄光にあずかる希望を誇りとしているばかりでなく、苦難をも誇りとしている、と言っているのです。つまりパウロは、私たちは信仰によって希望を誇りとしている、その希望の中で苦難をも誇りとすることができる、と語っているのです。この「誇りとする」という言葉は、以前の口語訳聖書では「喜んでいる」と訳されていました。どちらにも訳せるのです。「喜び誇る」とすれば一番よいのかもしれません。私たちは希望を喜び誇ることができる、それゆえに苦難をも喜び誇ることができる、なぜなら苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知っているからだ、ということです。つまりパウロが苦難をも喜び誇ることができると言っているのは、希望が与えられているからです。希望が与えられているから、苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は与えられている希望をさらに確かなものとするのです。ですからパウロがここで語っているのは、決して無責任な一般論ではありません。苦難が忍耐、忍耐が練達、練達が希望を生むことの根拠を彼ははっきりと知っているのです。それは「神の栄光にあずかる希望」です。信仰によって救われるとは、この希望を与えられることなのです。
神の栄光にあずかる希望
神の栄光にあずかる希望とはどのようなものなのでしょうか。2節をもう一度見てみると、「キリストのお陰で今の恵むみに信仰によって導き入れられ」ということと、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」ことが結びつけられています。前回の説教で申しましたように、この2節の前半の翻訳はかなり不十分なものです。原文を生かして訳すと「キリストによって、私たちは今立っているこの恵みへと、信仰によって近づくことを得た」となります。つまりキリストのお陰で与えられている恵みとは、神に近づき、神のみ前に出て、そこで倒されることなく立つことができる、ということなのです。そのことと、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」ことが結びつけられているのです。つまり、神の栄光にあずかるというのは、私たちが神のみ前に安心して出ることができ、そこで罪人として裁かれ滅ぼされるのでなく、キリストのお陰で救いの恵みをいただいて立つことができることです。ですからこれは1節の、イエス・キリストによって神との間に平和を得ている、ということと内容的には同じだと言えます。2節にある新しい視点は、「希望」という言葉によって示されているように、将来を見つめる視点です。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちは既に神との間の平和を得ており、神のみ前に安心して立つことができる者、神の栄光にあずかる者とされていますが、その救いは今はまだ完成していません。それは将来、具体的には主イエス・キリストがもう一度来られてこの世が終わる終末の時に完成することでもあるのです。信仰によって義とされ、神との間に平和を得ている者は、今神の見前に安心して近づき、立つことができるだけでなく、神が全ての者をお裁きになる終わりの日に、罪を赦され、神との間に平和を与えられている者として、安心してみ前に立ち、神の栄光にあずかることができるという希望を与えられているのです。
聖霊によって注がれている神の愛
しかもこの希望は、そうなればいいな、という願望に過ぎないものではありません。5節に「希望はわたしたちを欺くことがありません」とあります。ここは口語訳聖書では「希望は失望に終わることはない」となっていました。私たちに与えられているのは失望に終わることのない希望です。何故そう言うことが出来るのか。それは「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。神が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって無償で与えて下さっている救いの恵みを信じて洗礼を受け、信仰によって義とされた私たちには、聖霊が与えられているのです。その聖霊の働きによって神の愛が私たちの心に注がれています。聖霊が、神の愛を私たちの心に注ぎ、満たし、それによって生かして下さるのです。この聖霊によって注がれている神の愛こそが、失望に終わることのない希望の根拠です。その神の愛とはどのような愛であるかが6?8節に語られています。前回も読みましたが大切な所ですからもう一度読みます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。これが聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛です。私たちは、正しい人でも善い人でもない罪人であり、神をないがしろにして自分が主人となって歩んでいる者でした。その私たちのために、私たちの罪を全て背負って、神の独り子である主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さっているのです。神の私たちへの愛は、このキリストの十字架の死においてこそ示され、与えられているのです。この神の愛を私たちに具体的に注ぎ与え、その愛を感じさせ、その愛の中で生かして下さるのが聖霊です。聖霊の力を受けてこの神の愛を示される時に私たちは、9、10節に語られている確信を得ることができるのです。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。この確信が、神の栄光にあずかる希望の根拠です。この希望のゆえに私たちは、苦難をも忍耐することが出来るのです。この希望がなければ、苦難は私たちを玉にするどころか、むしろぺしゃんこに押しつぶしてしまうでしょう。しかし私たちには、独り子主イエスが十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったことによる神の愛が注がれています。主イエスの十字架の苦しみと死における神の愛の中で、私たちは自分の苦しみを負うのです。苦しみを忍耐する力はそこに与えられるのです。
信仰の練達
そしてそのように、主イエスの苦しみの歩みに従って自分の苦しみを忍耐していくところに、信仰の練達が生まれるのです。練達とは、試されて本物と証明される、という意味です。主イエスの十字架の死における神の愛の中で苦しみを忍耐していくことによって、私たちの信仰は、本物となっていくのです。この信仰の練達ということを生き生きと語っている箇所の一つに、ペトロの手紙一の第1章3節以下があります。そこを読んでみます(428頁)。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊(とうと)くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。ここにも、信仰が試練によって本物と証明されていくことが語られています。しかしさらに大事なのは、その練達を生む根拠として、生き生きとした希望、天に蓄えられており、終わりの時に現される救いへの希望が与えられているということです。忍耐が練達を生むのは、希望が与えられているからなのです。生き生きとした希望が与えられているから、忍耐は単なる我慢ではなくて、苦難の中でなお希望に生きる訓練の場となるのです。第4章に語られていたアブラハムの信仰も同じでした。4章18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」とあります。人間の目には希望するすべがないところで、なおも望みを抱いて信じる、人間の可能性をではなくて神の愛を信じる、それが聖霊によって私たちに与えられる信仰の練達です。そして信仰の練達は希望をますます確乎たるものにします。それは私たちが何事にも動揺しない強さを得ることによってではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活において示されている神の愛を、聖霊によってより深く、より身近なものとして、よりはっきりと知るようになることによってなのです。
主に従う人には災いが重なる
本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として詩編34編を選びました。この詩は、まさに苦難の中で忍耐に生き、信仰の練達を与えられ、そして希望に生かされているという信仰の歌です。中でも特に20~22節に注目したいと思います。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる」。「主に従う人には災いが重なる」、このことを受け止めることができる信仰は本物と証明された、練達した信仰です。練達した信仰がそこで見つめているのは、主がその災いから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように守って下さることです。主に逆らう者も同じように災いに遭うのです。しかしそこでは命を失い、罪に定められることが起る。つまり同じように災い、苦難に遭っても、主に従う信仰に練達している人と、主に逆らう人とではその災いのもたらす結果が違うのです。主の2016年、私たちの歩みに、またこの世界に、どのような苦難が、災いが起るのか、分かりません。しかし私たちが、私たちの内に働いて下さっている聖霊によって、主イエス・キリストの十字架の死によって与えられている神の愛を豊かに注がれていくならば、私たちは神の栄光にあずかる希望の中でその災い、苦難を忍耐することができ、その忍耐が練達を生み、そして練達が希望さらに確かなものとするという歩みを与えられていくでしょう。
本日これから、今年最初の聖餐にあずかります。聖餐においても、聖霊なる神がそのみ業を行なって下さり、主イエス・キリストの十字架と復活による神の愛を私たちの心に豊かに注ぎ、その愛を体全体で味わわせて下さるのです。この2016年を、み言葉を新たにいただき、聖餐にあずかることによって始めることができる幸いを感謝し喜び祝いたいと思います。