主日礼拝

弟子と師

2024年10月6日   
説教題「弟子と師」 牧師 藤掛順一

出エジプト記 第4章10~12節
マタイによる福音書 第10章16~25節

主イエスによって派遣される弟子たち
マタイによる福音書の第10章には、主イエス・キリストが十二人の弟子たちを選び、派遣するに当って語られた教えが記されています。主イエスは弟子たちに、ご自分がなさっていた、「天の国は近づいた」と告げ、病気や悪霊によって苦しんでいる人たちを癒すという働きをする力を与えてお遣わしになったのです。9章36節に「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という主イエスの思いが語られていました。弟子たちは、主イエスのこの深い憐れみのみ心を人々の間で具体的に実現していくために遣わされたのです。

狼の群れに羊を送り込む
主イエスはこのように、世の人々が「飼い主のいない羊」のように苦しんでいることを見つめておられました。そしてご自分こそ、その羊たちを養い導く飼い主、羊飼いであると意識しておられたのです。そしてその羊飼いとしての働きを具体化するために弟子たちを選び、お遣わしになったのです。けれども主イエスは知っておられます。遣わされていく弟子たちが、世の人々から「羊飼い」として歓迎されることはない、ということをです。そのことを語っているのが16節です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。弟子たちは、羊の群れの中に羊飼いとして遣わされるのではありません。むしろ狼の群れの中に羊として遣わされるのです。弟子たちは羊飼いというよりもむしろ弱い羊であり、世の人々は、飼い主がいなくて途方に暮れている羊というよりも、むしろ飢えた狼なのです。主イエスは、世の人々が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを見つめておられます。それが人々の真実の姿です。しかし世の人々は、自分たちが飼い主のいない羊のように弱り果てているとは思っていません。むしろ多くの人々は、自分は自分の力でそこそこにやっていると思っています。途方に暮れてなどいない、つまり自分たちに飼い主など必要ない、と思っているのです。それゆえに人々は、主イエスが遣わす弟子たちを受け入れません。余計なお世話だと拒絶し、かえって彼らを食い殺そうとするのです。かくして人々は獰猛な狼になるのです。しかしそれでは世の人々は本当に飼い主なしに、自分の力で生きている狼なのかというと、それは違います。人間の本質は、主イエスが見ておられるように、一人では生きていけないし、群れを守り導いてくれる飼い主、羊飼いなしには生きることができない羊なのです。自分の力で生きている、生きていけると思っている人間は、実は、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのです。つまり主イエスは世の人々が、「狼の皮を被った羊」であることを見つめておられるのです。

蛇のように賢く、鳩のように素直に
本当は羊だけれども狼のようになっている人々のもとに、弟子たちは無防備な羊として遣わされていきます。その姿が先週読んだ9、10節に語られていました。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」。お金も、身を守るためのものも何も持たずに、弟子たちは遣わされていくのです。まさに、狼の群れの中の羊です。その弟子たちに主イエスが与えた指示が16節の後半、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」です。この言葉は、どういうことを教えているのでしょうか。
「蛇」は、旧約聖書以来「賢い」ものの代表です。その賢さは、知恵がある、というよりも「ずる賢い」ということです。創世記3章で、最初の人間アダムとエバを欺いて、神に背かせ、禁断の木の実を食べるようにそそのかしたあの蛇の賢さです。そういう賢さを持て、と主イエスが弟子たちに教えたというのはどういうことなのでしょうか。狼の群れの中の羊である弟子たちに、狼たちに食われてしまわないように、上手に、ある意味ではずる賢く立ち回れ、ということでしょうか。しかしそれに続く「鳩のように素直になりなさい」というのはどういうことでしょうか。蛇のようにずる賢く、上手に立ち回ることと、鳩のように素直に生きることとは相容れないのではないでしょうか。
この言葉は昔から人々の頭を悩ませてきたのですが、そういう場合には前後の流れから意味を読み取っていくべきでしょう。主イエスは先程読んだように、弟子たちに、何の備えも、蓄えもなしに行けとお命じになったのです。身を守るための策略や手立てを用いるなということです。その流れから言えば、「蛇のように賢く」というのは、ずる賢く上手に立ち回って危険を避けよ、ということではありません。ある人は、これは「蛇のように賢く」と「鳩のように素直に」という二つの教えではなく、両者で一つの教えなのだと言っています。つまり、あなたがたの蛇のような賢さは、鳩のような素直さでなければならない、ということだというのです。それは、もっと説明を加えるとこういうことです。私たちは、主イエスの弟子、信仰者として、この世に遣わされていきます。弟子たちの派遣は彼ら十二人のみの話ではなく、教会の、つまり私たちのことだ、ということを先週も聞きました。私たちが遣わされていくこの世は、緑の牧場ではありません。むしろ「生き馬の目を抜く」ような世界です。私たちはまさに「狼の群れの中に送られる羊」なのです。そのような中で私たちが、自分の身を守ろうとすると、おのずと「蛇のような賢さ」を持つことになります。しかし主イエスは、あなたがたの賢さはむしろ、「鳩のような素直さ」でなければならないと教えておられるのです。「鳩のような素直さ」。それは、自分の力や知恵に頼るのではなく、神に身を委ね、神の守りと導きに信頼して歩むことです。つまり9、10節にあったように、全く無防備に、何の備えもなしに出かけていくこと、それこそが鳩のような素直さなのです。10節の終りには、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とありました。それは、神がご自分の働き手を必ず守り導き養って下さる、ということでした。その神の守りに信頼して、自分の知恵や力によってではなく、み心に委ねて歩む。主イエスは弟子たちに、つまり私たちに、あなたがたの「賢さ」はそういう「素直さ」でなければならない、と言っておられるのです。

信仰者は苦しみを受ける
賢く立ち回って身を守るのではなく、鳩のような素直さに生きる時に、弟子たちはどうなるのでしょうか。苦しみを受けるのです。そもそも、狼の群れの中に羊が送られたら、そこでどんなに賢く立ち回ったところで、その羊は食い殺されるのです。つまり弟子たちも、信仰者たちも、この世へと遣わされ、そこで苦しみを受け、ついには殺されるのです。そのことが17節以下に語られています。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」。「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」という迫害を弟子たちは受けるのです。その苦しみの中で、総督や王の前で、あるいは異邦人に対して、証しをするのです。主イエス・キリストを宣べ伝え、主イエスによって実現した神のご支配、救いを語っていくのです。そしてそれを語ることによってさらに苦しみ、迫害を受けるのです。さらには、このことのために、家族、兄弟の間にも不和が起っていきます。21、22節にこうあります。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。「わたしの名のために」、つまり、主イエス・キリストへの信仰のゆえに、家族の間でも対立が生じ、殺されるという事態さえ起る。さらには「全ての人に憎まれる」ということだって起る。弟子たちが世に遣わされて、主イエス・キリストのみ言葉を語り、み業を行っていくと、そういうことが起るのです。つまり、この世に遣わされていく信仰者たちは、人々に受け入れられず、かえって憎まれ、苦しみを受けるのです。そのことを、主イエスはここではっきりと予告し、私たちに、その覚悟をさせておられるのです。無理解や迫害の苦しみを受けることを、何かとんでもない、あってはならないことのように思うな、むしろそれは主イエスによって遣わされた者が必ず受けなければならない定めなのだ、ということです。

最後まで耐え忍ぶ
必ず起るその苦しみ、迫害の中で、どう歩むか。それがここに教えられています。22節の言葉で言えば、「最後まで耐え忍ぶ」ことが求められています。苦しみ、迫害の中で、忍耐するのです。自分を苦しめる者に対して、自分も狼になって対抗するのではなくて、あくまでも羊として、鳩のように素直な者として、苦しみを耐え忍んでいくのです。23節には「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と教えられています。忍耐する、というのは、どこまでもそこに踏み留まることとは違います。逃げ出して別の所へ行ってもいい。しかしその別の所でも、証しを続け、主イエスによって遣わされた者として歩むのです。つまり「逃げる」ことは、信仰者であることをやめることではありません。ある場所、ある領域での証し、伝道の業がうまくいかない時に、その場所、領域を離れて、別の所へ行き、別の仕方で証し、伝道をしていくのです。それによってかえって幅広く伝道がなされていくと言えるでしょう。しかしこれは伝道における戦略の問題ではありません。つまり苦しみや迫害の中でいかに賢く伝道していくか、ではないのです。私たちはそのような賢さにではなく、「鳩のような素直さ」に生きるのです。

言うべきことは教えられる
それは具体的にはどのようなことなのかを教えているのが、19、20節のみ言葉です。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。弟子たちが、そして私たちがこの世へと遣わされていくのは、証しをするためです。主イエス・キリストを宣べ伝える言葉を語っていくためです。しかしここで主イエスが教えておられるのは、そこで語る言葉を、あなたがたは自分で用意しなくてよい、ということです。語るべきことは、その時その時に、父なる神の霊、聖霊が与えて下さるのです。このことは、主イエスが弟子たちに、お金も、旅のための装備も何も持っていくなとお命じになったことと繋がります。必要なものはすべて父なる神が与えて下さるのだから、その恵みに信頼して何も持たずに歩めと教えられたのです。語るべき言葉においてもそれが貫かれています。自分の中に、証し、伝道の言葉を蓄えていかなくてもよい、自分が蓄えている言葉によってキリストを証しし、伝道をしようとするな、ということです。そこにおいても、父なる神の霊が必要な言葉を与えて下さるのです。

わたしがあなたの口と共にあって、語るべきことを教えよう
本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、モーセが主なる神によって、エジプトで奴隷とされ苦しんでいるイスラエルの人々のもとに遣わされていく場面です。モーセは、「わたしはもともと弁の立つ方ではありません。口が重く、舌の重い者です」と言っています。要するに、「私にはそんなことをする力はありません」ということです。しかし主は「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われました。弟子たちはこれと同じ約束を与えられて遣わされたのです。「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」というのと「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とは同じことです。主イエスに遣わされていく弟子たち、信仰者には、父なる神が聖霊によって共にいて下さり、語るべきことを示し与えて下さるのです。その父なる神の、聖霊による導きに信頼して歩むことこそ、主イエスの求めておられる「鳩のような素直さ」です。この素直さをもって、神のみ手に全てを委ねて、無理解や迫害の苦しみを忍耐して歩むこと、それが、この世に遣わされていく弟子たちの、私たち信仰者のあり方なのです。

弟子は師にまさるものではなく
信仰者はこのように、この世において、苦しみの中で忍耐しつつ生きるのです。それが当然であり、自然なのだということが24、25節にさらに語られています。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。弟子と師、僕と主人という譬えが用いられています。弟子や僕が勿論弟子たちのこと、信仰者のことです。師、主人が主イエス・キリストです。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。それは、弟子や僕は師や主人を超えることはできないとか、その必要はない、ということではなくて、弟子や僕が、自分の師あるいは主人が受けたのと同じ扱いを受けるのは当然だ、ということです。ですからそれを受けて、「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と続いていくのです。「家の主人」が主イエスのことです。その主イエスが「ベルゼブル」と言われる、それは、既に9章34節に語られており、この後12章22節以下に詳しく語られていくように、ファリサイ派の人々が、主イエスの悪霊追放のみ業は、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと言ったということです。主イエスの癒しの奇跡に、彼らは神の恵みの力を見るのではなく、悪霊の親玉の力を見ているのです。人々を悪霊の支配から解放し、救った主イエスが、そんなひどいののしりを受けているのです。師であり、主人である主イエスがそんな扱いを受けるなら、その弟子であり、僕であり、家族の者である弟子たち、信仰者たちが、苦しめられ、拒絶され、迫害されるのは当たり前です。だから私たちは、このような苦しみを受けることを、あってはならないことと思ってはならないのです。むしろその苦しみこそ、私たちが主イエスの弟子、信仰者であることの印です。私たちの苦しみは、全て主イエスが師として、主人として、先に受けて下さった苦しみなのです。

主イエスの家族として
そして大事なことは、ここで主イエスが「家の主人とその家族の者」と言っておられることです。私たちは、主イエス・キリストに従う弟子、仕える僕であるだけではなくて、主イエスという家の主人のもとにいる家族とされているのです。主イエスは私たちを、ご自分の家族と呼んで下さっているのです。私たちは、主イエス・キリストを中心とする新しい家族の一員とされているのです。主イエスに遣わされて、この世を、狼の群れの中の羊として歩み、自分の賢さ、力、自分の持っている言葉に依り頼むのでなく、主イエスの父なる神の守りと導きに身を委ねて歩むことによって、私たちは主イエス・キリストの家族となって生きるのです。
私たちがこの世へと遣わされて受ける苦しみは、家の主人である主イエスがお受けになった苦しみ以上のものではありません。主イエスは、ベルゼブルと呼ばれただけではなくて、十字架につけられて殺されたのです。しかもそれはご自分の罪のゆえではなく、私たちの全ての罪を背負って、罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。その主イエスの苦しみと死とによって、私たちは罪を赦され、主イエスの家族とされました。本日共にあずかる聖餐はそのことのしるしです。私たちは、主イエスが私たちのために受けて下さった大きな苦しみの下で、その主イエスの弟子として、僕として、そして家族として、み言葉を聞き、聖餐にあずかりつつ、自分に与えられる苦しみを耐え忍びながら、救い主イエス・キリストを証ししていくのです。

イスラエルの町を回り終わらないうちに
23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」とあります。この言葉も昔から人々を悩ませてきました。「人の子が来る」というのは、主イエスが再び来て下さって、そのご支配が、つまりは救いが完成し、この世が終わる、ということです。弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに、つまりもう間もなくその救いの完成が実現する、と読めるのです。しかしそれからおよそ二千年が経っていますが、いまだにそれは実現していません。この主イエスの言葉は間違いだったのでしょうか。しかし、「あなたがたがイスラエルの町を回り終らないうちに」というのは、弟子たちが主イエスから託された使命を完全に果たし終わらないうちに、ということでもあります。つまり、私たちが主から与えられた使命をまだ果たし終えることができず、不十分なことしかできていなくても、神は人の子をもう一度遣わして、救いを完成させて下さるのです。私たちの働きが神の救いを完成させるのではありません。主イエスに遣わされてこの世を歩む私たちの働きは、全く不十分、不完全です。そこで襲って来る苦しみを私たちは最後まで耐え忍ぶことができず、それに負けてしまうことも多々あります。主イエスの家族として苦しみを負うことにおいても、私たちはまことに不十分で、そこから逃げてしまうこともしばしばです。しかし主イエスはそれでも、その私たちのために救いを完成して下さるのです。救いは、私たちの働きに応じてではなくて、神の恵みによって与えられるのです。その神の恵みに信頼して、狼の群れの中の羊のような私たちですが、耐え忍んで証しの働きをしていきたいのです。

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