主日礼拝

弟子たちとペトロに

「弟子たちとペトロに」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第107編1-22節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第16章1-8節
・ 讃美歌: 299、204、453

驚きと恐れ
 十字架につけられて殺され、墓に葬られた主イエス・キリストが、三日目の、週の初めの日、日曜日の朝復活なさった、そのことを語っているマルコによる福音書第16章の1?8節を、先々週の主の日の礼拝においても読みました。主イエスの復活は、その墓が空であったという出来事として語られています。安息日が終わって週の初めの日になってから、夜明けと共に三人の女性たちが墓に行くと、その入り口を覆っていた非常に大きな石がわきへ転がしてあり、岩を掘って作った墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者、つまりは天使が右手に座っていたのです。彼女たちはそれを見て「ひどく驚いた」とあります。これは単に「びっくり仰天した」というだけのことではないでしょう。「ひどく驚いた」という言葉はこの福音書の14章33節にも出てきています。主イエスが捕えられる直前にゲツセマネという所で祈られた場面です。そこに、主イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」とありますが、その「ひどく恐れて」が本日の箇所の「ひどく驚いた」と同じ言葉なのです。つまり彼女たちは、びっくりしただけではなくて、深い恐れを感じたのです。主イエスを埋葬した墓が開かれており、誰かがその中にいる、これは常ならぬことが起っている、という深い恐れを彼女たちは覚えたのです。その彼女たちにこの若者、天使が「驚くことはない」と語りかけました。それは「恐れるな」ということでもあります。神の偉大なみ業がなされ、その栄光が輝く時、それを見た人は恐れおののかずにはおれません。クリスマスの夜、野宿していた羊飼いたちに天使が現れ、主の栄光が彼らを照らした時、彼らは「非常に恐れた」のです。その彼らに天使は「恐れるな」と語りかけ、神による偉大な救いのみ業を、救い主の誕生を告げたのです。それと同じことを、主イエスの復活の日の朝、この女性たちも体験したのです。

主イエスはもはや墓の中にはおられない
 天使は「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と告げました。十字架につけられて殺され、この墓に葬られたナザレのイエスは、復活してもうここにはおられない、それが天使たちが告げた主イエスの復活の知らせだったのです。ここに、主イエスの復活とはどのようなことであるのかが示されています。主イエスの復活を私たちは、死んで冷たくなった主イエスの遺体が次第に生気を取り戻し、再び温かくなってきて、やがて目が開き、むくりと起き上がった、という事柄として捉えてはならないのです。主イエスの復活の本質というか、肝心な点はそういうことにあるのではなくて、主イエスはもはや墓の中にはおられない、ということにこそあるのです。
 墓というのは、人の遺体を納める場所です。この地上を生き、活動し、様々な業績を残したその人が、死んで、その活動や業績の全てが過ぎ去った過去となった、そのことを示し、表しているのが墓です。「棺を覆って事定まる」という諺があるように、死んで葬られることによって、その人がどのような人でありどんな働きをしたかはもはや動かないものとして確定するのです。そしてそれは遺された人々の思い出となります。人々の思い出の中にその人が生き続ける、と言うこともできますが、しかし思い出というのは、思い出す側の一方的な思いです。良い思い出にせよ悪い思い出にせよ、死んだ人はそこに口出しをすることはできません。ですからもう一つの諺として「死人に口なし」というのがあるのです。死んだ者はもはや、生きている者がその人について感じる思い出に、良きにつけ悪しきにつけ後の人が下す評価に、口出しはできないのです。もはや過ぎ去った過去の人となったからです。そのことを端的に表しているのが墓であると言えるでしょう。生きている者は自分の意志で歩き回っていますからどこにいるかを捜すのに苦労します。しかし死んで墓に葬られた者はもうそこを動きません。遺された者はいつでもそこへ行って、死んだ人の思い出に、しかも自分の好きな思い出にひたることができるのです。オスカー・ワイルドが書いた「サロメ」という戯曲があります。このサロメは本日の箇所に出てくるサロメとは別人で、ヘロデ王の妻ヘロデヤの娘です。彼女がヘロデの前で踊りを披露し、その褒美に、捕えられていた洗礼者ヨハネの首を求めたのです。ワイルドは、サロメはヨハネに恋をしていたという設定にしています。しかしヨハネは彼女を全く相手にしませんでした。盆に載せられてきたヨハネの首にサロメは口づけし、「これでようやくお前は私のものになった」と言う、確かそういう場面があったと思います。本日の箇所で、主イエスの体に香料を塗ろうとして墓に来た女性たちの思いは、このサロメのヨハネに対する思いとは根本的に違いますが、しかしある点では共通していると言えるかもしれません。この女性たちにとっても、死んで墓に葬られた主イエスは、自分たちの自由になるのです。彼女たちは主イエスを深く愛し、そのお体に最後の奉仕をしたいと思って香料を買い求め、夜明けと共に墓に出かけました。主イエスはもうその墓からどこかへ行ってしまうことはない、そこにおられる、そこへ行けば、心おきなく涙を流しつつその遺体に最後の奉仕をすることができる、彼女たちはそこに、悲しみの中にもある慰めを感じていたのでしょう。しかし墓の中にいたのは主イエスではなくて天使でした。天使は彼女たちに「主イエスはここにはおられない」と告げたのです。それが復活の出来事です。彼女たちが、主イエスはもうずっとここにおられる、ここへ来れば主イエスの思い出にひたることができる、と思っているその墓の中にもはや主イエスはいない、主イエスは生きて、新しく活動しておられるのです。つまり主イエスの復活とは、主イエスが、彼女たちの思い出の中だけに生き続ける過去の人になってしまうことを拒否した、ということです。主イエスは、事定まった、別の言い方をすれば死人に口なしの、私たちに対して口出しのできない過去の人となってしまうことはなかったのです。主イエスは生きて働きかけ、語りかける方として私たちと出会おうとしておられるのです。

主イエスと会うことのできる場所は
 墓の中にはもうおられない、生きておられる主イエスと、どこでお会いすることができるのでしょうか。天使はそのことをも告げています。7節「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。復活なさった主イエスはガリラヤへ行かれる、この墓ではなくガリラヤこそが、復活して生きておられる主イエスとお会いすることができる場所なのだと天使は告げたのです。
 彼らがガリラヤで主イエスと会うことができるのは、主イエスが彼らより先にそこへ行っておられるからです。主イエスがおられる所に行くことによってこそ、主イエスにお会いすることができる、これはものの道理です。しかし私たちはこの当然の道理を案外わきまえていないのではないでしょうか。主イエスがおられる所を捜し求めてそこへ行くのではなくて、「ここにいるはずだ」とその居場所を自分で勝手に決めてしまって、そこで主イエスに会うことができないと、何だ、いないじゃないか、と腹を立てたり、それで主イエスとの出会いをあきらめてしまったりすることがよくあるように思います。例えば私たちは、いろいろな苦しみ悲しみの中で、その救いを求めて神に、そして主イエスに祈ります。そこで自分の願っている救いが与えられることが主イエスとの出会いだと思っているのです。しかしその期待が思ったように叶えられないと、やっぱり神なんか、イエスなんかいないんだと思ってしまう、ということがあります。あるいは、教会の礼拝に一生懸命に通い、聖書を読み、祈り、教会の様々な奉仕を負う、そういう自分の信仰的な頑張り、努力によって主イエスと出会うことができると期待しているということもあるでしょう。しかし主イエスとの出会いは私たちが頑張ったからといって造り出せるものではありません。頑張っていても本当の喜びが見出せない中でいつか疲れ果ててしまって、信仰そのものを失ってしまう、ということも時として起ります。あるいはそういう頑張りとは全く別のこと、例えば弱い人、貧しい人のための奉仕の活動の中に主イエスとの出会いがあると信じてそれに励む、ということもあります。そういう目に見える活動は分かりやすいし、それなりの充実感もあり、そこに主イエスとの出会いを感じるということもあります。しかしもしも私たちが、主イエスと出会える場はここだ、と自分で決めてしまっているとしたら、それはこの女性たちが、主イエスは墓の中にいるはずだと思って墓を訪れたのと同じことになります。私たちが「ここにおられるはずだ」と思っている主イエスというのは、死んで墓に葬られ、もうそこを動くことがない、過去の人となった主イエスです。もはや私たちに口出しをしてくることのない主イエスを、自分の好きなように思い出して、そこに主イエスとの交わりがあると思おうとする所が私たちにはあるのです。主イエスの復活の出来事とは、そのような思いに陥っている私たちが、「主イエスはあなたが思っているそこにはおられない」と告げられる、という出来事です。復活して生きておられる主イエスとの出会いは、私たちが自分の思いによって決めるあの場所この場所においてではなくて、主イエスご自身が私たちとここで出会うと決めておられるその場所でこそ与えられるのです。だから私たちは、主イエスはここにおられる、と自分が思っている場所を離れて、主イエスがお示しになる場所へと赴くことを求められているのです。

ガリラヤとは
 天使が彼女たちに告げた、主イエスとの出会いの場所はガリラヤでした。ガリラヤは、彼女たちの、また弟子たちの故郷です。またそれは主イエスの出身地でもあります。主は天使が言っているように「ナザレのイエス」と呼ばれていました。ガリラヤの町ナザレ出身のイエス、ということです。主イエスはこの町で育ち、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝える伝道を始めたのです。そしてガリラヤで、十二人の弟子たちが選ばれました。彼ら弟子たちと、さらにここに出て来るマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメらを中心とする女性たちが、ガリラヤから主イエスに従って来て、遠いユダヤのエルサレムにまで一緒に旅をして来たのです。そのようにガリラヤは彼らの故郷、彼らが主イエスと最初に出会い、主の召しによって弟子となり従っていった、女性たちは主イエスの一行の生活のお世話をするようになった、その地なのです。復活した主イエスは彼らよりも先にそのガリラヤへ行かれるので、復活した主イエスとの新しい出会いはそこで与えられるのです。
 聖書の学者たちの中には、ここにエルサレムを中心とするユダヤとガリラヤとの対立を見ようとする人もいます。神殿のあったエルサレムはユダヤ人の宗教的中心地であり、そこには祭司たちや律法学者たちがいて権威を握っていました。それに対してガリラヤははるか北の方の、当時の辺境の地であり、人々の生活も貧しく、エルサレムの正統的ユダヤ教徒からは、ガリラヤの連中には異邦人の血が混じっていると蔑まれていました。エルサレムという中央の支配者である祭司や律法学者たちは主イエスを拒み、十字架につけたのに対して、貧しい辺境の地ガリラヤは主イエスの活動の根拠地であり、そこの人々は主イエスの味方なのだ、だから復活した主イエスの新しい活動もガリラヤから始められるのだ、というような捉え方があるのです。しかしここに語られているのはそのようなことではないでしょう。復活なさった主イエスがガリラヤへ行かれるのは、そこが根拠地だからでも、味方がいるからでもありません。全く別の理由によることです。それを示しているのが、「あなたがたより先に」という言葉です。つまり弟子たち自身がこれからガリラヤへ行くのです。主イエスはそのことを見越して、彼らよりも先にガリラヤに行って、そこで待っておられるのです。弟子たちがこれからガリラヤへ行くのはなぜでしょうか。弟子たちはガリラヤから主イエスに従ってこのエルサレムまでやって来ました。しかし主イエスが捕えられ、十字架につけられる時、男の弟子たちは皆逃げ去ってしまったのです。それは彼らの、主イエスの弟子としての、つまり信仰者としての歩みの挫折であり失敗です。主イエスの十字架の死によって彼らは、従うべき主を失い、また自分たちも信仰において挫折して、途方に暮れているのです。その彼らはもはやエルサレムに留まっていることはできません。挫折し失敗し、行き詰まり、もうどうすることもできなくなった敗北者として、すごすごと、故郷であるガリラヤに帰るしかないのです。彼らがガリラヤへ行くというのは、故郷に錦を飾るのとは正反対の、あの放蕩息子がぼろぼろの乞食のような姿になって父の家に帰って行ったようなことなのです。そのガリラヤに、復活なさった主イエスが先に行っておられ、そこで彼らに出会おうとしておられ、彼らを迎えようとしておられるのです。主イエスに従い通すことができずに裏切り、主を見捨てて逃げ去り、主を一人で十字架の上で死なせた、その弟子たちを、その失敗、挫折、敗北の行きつく先で、復活した主イエスが迎えて下さり、新しく出会って下さろうとしているのです。それが「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる、かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という天使の言葉の意味なのです。

弟子たちとペトロに
 天使は「弟子たちとペトロに」このように告げなさいと言いました。ペトロも十二人の弟子たちの一人であるのに、その名前がわざわざ挙げられています。それはやはり彼が、主イエスが捕えられた後、あの大祭司の屋敷の中庭で、主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったからでしょう。主イエスを「知らない」と言うというのは、自分と主イエスとの関係を否定することです。しかも三度というのは、徹底的にということです。ペトロは主イエスと自分との関係を徹底的に否定してしまったのです。つまり弟子であること、主イエスに従う者であることを完全に放棄してしまったのです。そのペトロに、復活した主イエスがガリラヤに先に行ってあなたを待っている、あなたはそこでもう一度主イエスにお会いすることができる、と告げるようにと天使は言ったのです。それは主イエスのみ心をペトロに伝えるためです。ペトロは主イエスを裏切り、関係を徹底的に否定し、弟子であることをやめてしまった、しかし主イエスは、彼との関係を断ち切ってしまうことはない、彼を捨ててしまうことはない、主イエスはペトロのその罪をも全て背負って十字架にかかって死んで下さったのであって、それによって彼に罪の赦しが与えられ、復活なさった主イエスとの新しい出会いによって彼もまた新しく、主イエスと共に生きることができる、そういう主イエスのみ心を伝えるために、天使は敢えて「弟子たちとペトロに」と言ったのです。
 「かねて言われたとおり」ともあります。それは14章の28節のことです。その前の27節で主イエスは弟子たちに、これからあなたがたは皆私につまずく、とおっしゃいました。つまり信仰の挫折に陥ることを予告なさったのです。それに続いて、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃったのです。しかし弟子たちはその時は何のことか分かりませんでした。ペトロは次の29節で「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったのです。それを受けて主イエスは、ペトロが今夜、鶏が二度鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろう、とおっしゃったのです。つまり主イエスは、ペトロがこれから陥るつまずき、信仰の挫折を見つめつつ、復活の後、あなたがより先にガリラヤへ行くとおっしゃっていたのです。「かねて言われたとおり」は、そのことを思い出しなさい、ということです。主イエスは、ペトロがご自分のことを三度「知らない」と言ってしまうことを知っておられ、しかしそのペトロを見捨てることはないというみ心を、かねてから告げておられたのです。

主イエスを本当に見る
 「そこでお目にかかれる」という言葉にも注目したいと思います。これは原文においては「見る」という言葉です。「あなたがたはそこで彼を見るであろう」が直訳です。信仰に挫折し、主イエスを見捨て、「知らない」と言ってしまった彼らが、すごすごと帰っていくその先で、主イエスが彼らを待っておられ、新しく出会って下さり、そしてもう一度弟子として、信仰者として立てて下さる、その時、あなたがたは主イエスを「見る」であろうと告げられているのです。それは、主イエスの本当のお姿を見る、ということです。それまでも彼らは勿論主イエスを見ていました。しかし、肝心なことは何一つ見えていなかったのです。ペトロは先程の14章で、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていました。その時彼は、主イエスのことが見えているつもりでした。しかし彼が見ていたのは、自分の熱心と決意によって従っていくことが出来る、関係を保っていくことができる主イエスでした。しかし彼はその数時間後に、自分も捕えられてしまうことへの恐怖の中で、その主イエスを見失ってしまったのです。自分の熱心や決意によって自分が築いている主イエスとの関係は、脆くも崩れ去ってしまったのです。そのように信仰において挫折し、もはや自分から主イエスとの関係を築く道が全て閉ざされてしまった所に、弟子たちとペトロに告げられたあの言葉が響いたのです。「主イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」。このみ言葉に導かれて彼はもう一度新たに主イエスと出会うことが、主イエスを見ることができました。その時ペトロは、これまで自分は主イエスのことが全く見えていなかったことに気づかされたのです。自分の熱心と決意が主イエスと自分との関係を支えているのだと思っていたけれども、そうではなくて、主イエスご自身が愛によって自分を捕え、支え、守り、導いて下さっていたのだということに気づかされたのです。それによって彼は、主イエスを本当に見ることができたのです。

復活した主イエスにお会いするとは
 私たちはとかく、主イエスを墓の中に閉じ込めてしまい、死人に口なしにしてしまいます。自分の思い、考えに合う、自分に都合のよい主イエスを見つめようとするのです。そのような私たちに、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」というみ言葉が告げられます。そのみ言葉によって私たちは、ある意味で主イエスを見失うのです。それまで見えている、分かっていると思っていた主イエスのことが見えなくなり、分からなくなるのです。しかしみ言葉はもう一つのことをも告げています。主イエスが私たちより先にガリラヤへ行って、そこで私たちと新しく出会って下さる、ということです。ガリラヤとは、私たちが自分の力や努力、熱心さによって主イエスに従い、信仰者として歩んでいこうとする、その努力や熱心が挫折し、崩れ去り、粉みじんに打ち砕かれてしまう、その敗北の果てに行きつく所です。復活なさった主イエスはそこに、私たちよりも先に行って、そこで私たちを待っていて下さるのです。主イエスとの出会いはそこでこそ与えられます。私たちが、もはや主イエスと出会うことなどできない、主イエスとの関係は失われ、それを築く道は閉ざされたと思う所においてこそ、復活して今も生きておられる主イエスが私たちと出会い、主イエスの恵みによって支えられ維持される新しい関係を築いて下さるのです。私たちはそのようにして、復活した主イエスとお会いするのです。

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