主日礼拝

祈りを教えてください

「祈りを教えてください」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章1-4節
・ 讃美歌:299、127、392

祈りを教えてください
 ルカによる福音書第11章の冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。9章の28節には、主イエスが三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られたとあります。同じ9章の18節にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあります。そして6章の12節には、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。他の福音書に勝ってルカは、主イエスが祈りの人であられたことを語っているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。神様の前に独りで立ち、語りかけるのです。たとえ仲間たちと一緒に祈るとしても、語りかけるのはそれぞれ自分です。自分と神様との間に一対一の人格的な関係がなければ、祈ることはあり得ません。人格的な関係などと言うと難しく感じますが、要するに、祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であることが意識されている、ということです。そういう関係がある所でこそ祈ることができるのです。相手がはっきりしない、意志や言葉を持っていないものに対しては、手を合わせて拝むことや、自分の願いを念じることはできても、祈ることはできません。主イエスが祈りの人であったということは、主イエスが神様との間に人格的な関係を持っておられた、生きておられる神様との一対一の交わりに生きておられたということを意味しているのです。
 けれどもこのことは、主イエスがただ自分と神様との交わりだけを大切にして生きておられたということではありません。ルカは、祈っておられる主イエスの傍らに、常に弟子たちの姿があったことを描いています。9章28節で、祈るために山に登られた時には、三人の弟子たちを連れて行かれました。その山の上で、祈っておられる主イエスのお姿が栄光に包まれた輝かしい姿に変わったのを、弟子たちは見たのです。その栄光のお姿を見せるためにこの三人を連れて行かれたのだと言えるでしょう。また9章18節には、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」とありました。祈っておられるのは主イエスお一人だけれども、その周りに弟子たちがいてそのお姿を見ているのです。そしてその後、主イエスとは何者であるかについての大事な会話が交わされていったのです。また6章12節で、山に行き、祈って夜を明かされたのは主イエスお一人でしたが、その祈りは、十二人の弟子たちを選んで使徒とするためであったことが13節以下に語られています。主イエスがお一人で祈っておられ、その周囲には常に弟子たちがおり、主イエスの祈りによって弟子たちは支えられ、導かれている、ということをルカは繰り返し描いてきたのです。本日の11章1節でも、祈っておられる主イエスの傍らには弟子たちがおり、祈る主イエスを見ていました。そして主イエスの祈りが終わると、その中の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。
 「わたしたちにも」というのですから、これは弟子たち皆を代表する願いです。弟子たちは主イエスに、「祈りを教えてください」と願ったのです。しかし彼らは、祈りを知らなかったわけではありません。祈ったことがなかったのでもありません。ユダヤ人である彼らは、毎日祈りの言葉を唱えていました。神様に祈ることは彼らにとって身近なことであり、生活の一部だったのです。その彼らが、「祈りを教えてください」と願ったことに先ず注目しなければなりません。彼らは、主イエスが祈っておられるお姿を繰り返し見てきて、そこに、自分たちの祈りとの違いを、ユダヤ人なら誰でも毎日祈っている祈りとは異質なものを感じたのです。彼らが感じた異質なものとは何だったのでしょうか。

主イエスの祈りの世界
 そのことを考えるためには、主イエスご自身がどのような祈りをしておられたのかを知る必要があります。主イエスご自身の祈りの言葉は、福音書の中にそう多くは記されていません。しかし私たちは既にその祈りの言葉を読んできました。それは、この福音書の10章の21節以下です。そこに、主イエスが聖霊によって喜びにあふれて父なる神様に向かって語られた言葉、つまり祈りの言葉が記されていたのです。主イエスはこう祈られました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。例えばこのような祈りを、弟子たちは聞いていたのです。このような祈りは、弟子たちには驚きでした。何が驚きだったかというと、主イエスが神様に「父よ」と呼びかけておられることです。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するためのたとえです。しかし主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。今読んだ所においても、「すべてのことは、父からわたしに任せられています」とあります。父が全幅の信頼を置いて全てのことを任せている子が主イエスなのです。また、「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とも語られています。子である主イエスは、父がどういう方であるかをよく知っておられ、そしてご自分が示そうと思う者たち、つまり弟子たちに、父を示して下さるのです。そのように主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「お父ちゃん」というような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。自分たちの全く知らない祈りの世界に主イエスは生きておられることを弟子たちは感じていたのです。

主の祈り
 祈りの世界は、神様との交わりの世界と言い換えることができます。神様との人格的な関係がなければ祈ることはできないと先ほど申しましたが、それは裏返せば、どのように祈っているかに、その人と神様との人格的な関係、交わりのあり方が現れるのです。主イエスの祈りが弟子たちにとって異質だったのは、主イエスが神様との間に持っておられる交わりが異質だったからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子の信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、私たちも祈っている、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、ご自分の祈りの世界へと、神様との交わりの世界へと招いて下さっているのです。

父よ
 主イエスの招きが最もよく表れているのが、「父よ」という最初の呼びかけの言葉です。神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈っておられた主イエスが、私たちにも、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈ることを教えて下さったのです。このことによって主イエスは私たちを、ご自分の祈りの世界へと、神様との間に父と子の関係を持って生きることへと招き入れて下さっているのです。それは弟子たちにとってのみでなく、私たちにも驚くべきことです。なぜなら私たちは、神様を父と呼べるような者ではないからです。私たちを造り、命を与え、様々な能力や才能を与え、守り導いて下さっているのは神様です。そういう意味で、神様は私たち皆の父であると言うことができます。しかし私たちは、神様を自分の父と認めようとせず、むしろ背き逆らい、そっぽを向いて生きています。それはいわゆる放蕩息子が、父の財産の分け前をもらって家を飛び出し、自由を求め、好き勝手に生きようとしているようなものです。自分が持っているものを全て自分で得たかのように錯覚して、自分のものを自分の思い通りにして何が悪い、と開き直りつつ、父を否定して自分の力で生きようとしているのです。それが、罪に陥っている生まれつきの私たちの姿です。子として生きていない私たちは、神様を「父」と呼ぶことはできないのです。そのような私たちに、主イエスは、「父よ」と呼びかけて祈ることを教え、主イエスが父なる神様との間に持っておられる父と子のよい関係へと私たちを招いて下さっているのです。

主イエスの招き
 この招きは、主の祈りを教えて下さったことだけに留まるものではありません。言い換えれば、私たちは、「父よ」と呼びかけて祈ることを教えられただけで、父なる神様との信頼と愛の関係を取り戻すことができるわけではないのです。この招きは、主イエスのご生涯の全体を通して私たちに与えられています。主イエスは、私たちが神様の子として生きることができるようになるために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死によってこそ、父を認めず、自分の力で生きているように思っている私たちの罪は赦されて、神様をまことの父とする信頼と愛の関係を回復されるのです。私たちが「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を祈ることができるのは、主イエスの十字架の死によってこそなのです。
 主の祈りはこのように、その冒頭の呼びかけの言葉からして、私たちを、主イエスのご生涯全体を通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。つまり主の祈りを祈るようになることによって、私たちは、お祈りの言葉を一つ覚えるのではなくて、神様との新しい関係に入るのです。生まれつきの私たちは持っていない、神様を父と呼び、神様の子として、信頼と愛に生きる人格的関係を与えられるのです。それこそが、信仰を持つということです。信仰者になるとは、何かの信念を持つことではないし、ある規範や規則に従って生きる者となることでもありません。神様との間に、父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得するのではなく、主イエス・キリストの恵みによって与えられるのです。父なる神様との間に父と子としての関係を持っておられたのは元々は主イエスのみでした。しかし主イエスはその恵みによって、私たちをも、ご自身と父なる神様との交わりへと招き入れて下さるのです。その招きのために与えられたのが、主の祈りなのです。

御名が崇められますように
 さて、「主の祈り」はこのルカ福音書11章の他に、マタイ福音書の6章にもあります。私たちが祈っている形により近いのはマタイの方です。ルカにおける主の祈りには、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」がありません。主の祈りは通常前半の三つと後半の三つの祈りに分けて考えられますが、前半の三つ目がルカにはなく、前半は二つ、後半が三つになっているのです。本日はこの前半の二つの祈りをさらに味わっていきたいと思います。
 「御名が崇められますように」が第一の祈り求めです。私たちが祈っている言葉では、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」です。私たちが用いている主の祈りの言葉は明治十年代の訳ですから、もう百三十年も前の日本語です。今この日本語の文章の意味を正確に理解している人はどれだけいるでしょうか。多くの人はこの祈りを、「私たちにみ名を崇めさせてください」という意味に理解していると思います。しかしこの「崇めさせたまえ」は、私たちに崇めさせて下さいという意味ではなくて、神様ご自身がみ名を崇めて下さい、ということを尊敬を込めて語っているのです。神様がご自分のみ名を崇めるというのはおかしいと思うかもしれませんが、「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。ですからこれは「神様がご自分の名を聖なるものとして下さい」という祈りなのです。神様がご自分のみ名を聖なるものとして下さることこそが私たちの救いです。旧約聖書エゼキエル書第36章22、23節(1356頁)にそのことが語られています。「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。神様ご自身が、ご自分の名を聖なるものとなさるのです。その前提には、み名が汚されているという現実があります。み名を汚したのは「あなたがた」、つまりイスラエルの民です。イスラエルの民が、神様に背き、罪を犯すことによって国を滅ぼされ、バビロンに捕囚となってしまった、そのことによって彼らの神である主の聖なるみ名を汚しているのです。神様の顔に泥を塗っているのです。しかし神様は、彼らが汚したご自分のみ名を聖なるものとして下さるのです。それは彼らを捕囚の苦しみから解放し、救って下さることによってです。イスラエルの民の罪の結果である捕囚状態を終わらせ、彼らに救いを与えることで、神様はご自分の名を聖なるものとなさり、それによって諸国民に、「わたしは主である」ことをお示しになるのです。神様がご自分の名を聖なるものとして下さることが私たちの救いである、とはそういうことです。神様がそれと同じことを私たちのためにして下さったのが、主イエス・キリストによる救いです。私たちも、先ほど見たように神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なるみ名を汚しています。その結果、神様との間のよい関係を失い、まことの父を見失っているのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。それは同時に、神様が、私たちによって汚されたご自分の名を聖なるものとして下さったということでもあるのです。このように、み名を聖なるものとして下さるのは神様であり、それが私たちのための救いのみ業でもあります。神様はそのみ業を独り子主イエス・キリストを遣わすことによって始め、その十字架の死と復活によって決定的に押し進めて下さいました。み名を聖なるものとして下さる神様のみ業は、主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的に前進したのです。私たちはこのみ業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしそのみ業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神様のみ名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「み名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。ですからこの祈りは、神様がみ子イエス・キリストによって既にみ名を聖なるものとして下さったその救いの恵みを感謝し、その恵みの中を歩みつつ、み名が最終的に聖なるものとされることを、つまり救いの完成を待ち望む祈りなのです。
 そしてこのように祈りつつ生きる私たちは、私たちの側でも、神様のみ名を汚すことなく、崇めて歩もうとする者となるのです。あるいは私たちの姿を見て人々が主なる神様を崇めるようになるように努力していくのです。ですから結果的には、「私たちにみ名を崇めさせてください」ということにもなるのです。しかしあくまでも、神様ご自身がみ名を聖なるものとして下さることが根本です。その恵みの中で、私たちもみ名を崇めていくのです。

御国が来ますように
 第二の祈りは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神様のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、このことも、神様ご自身がして下さることです。神の国は、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が来らせて下さるものなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の国、つまり神様の私たちへのご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神の子として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるという仕方で実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。ですからこの祈りは、主イエス・キリストによって実現している神様のご支配を感謝して、そのご支配に支えられて歩みつつ、そのご支配の完成を待ち望む祈りなのです。

主の祈りを祈りつつ
 このように見てきますと、この前半の二つの祈りは、「父よ」という呼びかけによって主イエスが招き入れて下さっている主イエスご自身の祈りの世界、神様との間に父と子としての信頼と愛の関係を与えられて生きる者が基本的に祈り求めることは何かを示していると言うことができます。それは神様のみ名が聖なるものとされ、崇められること、そして御国が、神様のご支配が実現することです。そしてそれらはいずれも、神様ご自身が、独り子イエス・キリストによって既に始め、決定的に押し進めて下さっていることであり、この世の終わりに完成すると約束して下さっていることです。主の祈りを祈る私たちは、神様のこの救いのみ業とその完成の約束の中を、まことの父である神様に信頼しつつ生きるのです。
 弟子たちは、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。洗礼者ヨハネに従う人々には彼らの祈りがあったのです。それに対して、主イエスに従う者たちの祈りが主の祈りです。キリスト信者、クリスチャンとは、主の祈りを祈りつつ生きる者たちです。この祈りによって主イエスは私たちを、ご自分の祈りの世界へと、父なる神様の子として生きる祝福へと招き入れて下さっているのです。これこそが、10章23節以下に語られていた、多くの預言者や王たちが見たかったが見ることができず、聞きたかったが聞くことのできなかった、しかし今や主イエスの弟子たちに与えられている幸いなのです。

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