主日礼拝

足を洗ってくださる主イエス

「足を洗ってくださる主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第51編3-11節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第13章1-11節
・ 讃美歌:19、493

弟子たちと共にいる主イエス
 本日から、ヨハネによる福音書の第13章に入ります。この13章から、ヨハネ福音書の新しい部分が始まる、ということを前回お話ししました。12章までのところには、主イエスがなさった七つのしるし、つまり奇跡と、それをめぐって人々に語られたみ言葉が記されていました。主イエスがみ業とみ言葉とによって人々を教えてこられたことが語られてきたのです。その部分の終わりである12章36節後半には、主イエスが人々のもとを立ち去り、身を隠された、とありました。人々への教えを語り終えた主イエスは人々のもとを去って身を隠したのです。次に人々の前に姿を現すのは、捕えられ、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けている場面です。主イエスはピラトによって人々の前に引き出され、そして死刑の判決を受けて十字架につけられるのです。そのいわゆる受難の場面、具体的には18章までは、主イエスは人々の前に姿を現すことはありません。ではそれまでの間、つまり13章から17章において、主イエスは何をしておられたのでしょうか。人々のもとを立ち去り、身を隠した主イエスは、弟子たちと共におられたのです。

最後の晩餐
 13章1節に「さて、過越祭の前のことである」とあります。この過越祭の時に主イエスは十字架につけられるのです。その祭りが目前に迫っています。2節に「夕食のときであった」とありますが、これは、主イエスが弟子たちと共に取った最後の夕食、いわゆる「最後の晩餐」です。この夕食の後、主イエスは逮捕され、大祭司のもとで尋問を受け、翌朝ピラトのもとで裁かれ、すぐに十字架につけられたのです。そのことが18章以下に語られています。ということは、本日の13章から17章までのところは全て、主イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」の場面だということです。最後の晩餐において主イエスがなさったこと、弟子たちに語られたみ言葉に、ヨハネは多くの字数を費やし、力を込めて語っているのです。

主イエスの時が来た
 弟子たちとの最後の晩餐の席に着かれた主イエスの根本的な思いが1節に示されています。「この世を去って父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。主イエスは、「御自分の時が来た」ことをはっきりと意識しておられたのです。「御自分の時」とは、「この世を去って父のもとへ移る」時です。それは十字架につけられて死ぬことを意識した言葉ですが、しかし死んで天国に行く、ということではありません。主イエスは既に12章23節において「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておられました。主イエスの時とは、十字架の死と復活によって永遠の命を生きる者となり、そして父なる神のもとに帰る、そのことによって独り子なる神としての栄光を受ける時です。言い替えれば、主イエスの救い主としてのお働きが、十字架の死と復活によって成し遂げられる時です。さらに言い替えれば、独り子主イエスを遣わして下さった父なる神の私たちへの愛のみ心が実現する時です。この福音書の3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありました。この父なる神の愛が、主イエスの十字架と復活によって実現するのです。その「御自分の時」がいよいよ来たことを、主イエスは深く意識しておられたのです。

弟子たちを愛し抜かれた主イエス
 御自分の時が来たことを悟った主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」ました。神の独り子であられる主イエスは、神に背き逆らっている罪人である人間たちを救うためにこの世に来られました。そしてみ業とみ言葉によって人々を教えて来られました。しかし12章の終わりにおいて明らかになったのは、人々が主イエスを信じない、という現実でした。信じることによって人間が自分の力で救いを得ることはできないことが明らかになったのです。その現実の中で主イエスはこれから十字架の死へと向かおうとしておられます。ご自分が十字架にかかって死ぬことによって、罪人である人間の救いを実現しようとしておられるのです。その救いにあずかることができるのは、主イエスの十字架の死、そして復活によって神が実現して下さった救いを信じて、主イエスに従っていく弟子たちです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」のです。でも彼ら弟子たちは、自分の信じる力、信心深さによって独り子を信じたのではありません。主イエスが彼らを愛して、この上なく愛し抜いて下さったことによって、彼らは「独り子を信じる者」として立てられていったのです。13章から17章にかけて、主イエスが最後の晩餐の時を彼らと共に過ごされたのは、彼らを愛し抜くことによって弟子として立てるためです。主イエスの復活の後、彼らは教会の礎となりました。そして彼らを通して、主イエスを信じる信仰が広められていき、独り子を信じる者たちが新たに生まれていったのです。そのようにして主イエスによる救いが、世の全ての人々に及んでいったのです。つまり弟子たちは主イエスによる救いの出発点にいる人々です。主イエスは十字架の死へと赴く前に、弟子たちをこの上なく愛し抜くことによって、教会の礎を据えようとしておられるのです。そのことが、13?17章に語られているのです。

弟子たちの足を洗う
 この晩餐において主イエスが真っ先になさったのは、弟子たち一人ひとりの足を洗うことでした。4、5節に「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」とあります。細かい描写がなされていて、実際の情景が目に浮かびます。この地の人々は我々で言うサンダルを履いて歩き回っていますから、足は最も汚れるところです。宴会に招いた時に、到着した客の足を洗うというもてなしがあったようです。しかしそれは奴隷の仕事でした。家の主人が自ら客の足を洗うことはあり得ませんでした。主イエスがどのような思いでこのことをなさったのかが3節に語られています。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」。こう悟ったから、主イエスは弟子たちの足を洗ったのです。これは先程の1節の「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と同じことを言っています。父なる神のもとから来てこの世を歩まれた主イエスは、いよいよ父なる神のもとに帰ろうとしているのです。そして大事なことは、父がすべてを御自分の手に委ねられた、ということを主イエスが意識しておられたことです。父なる神が独り子主イエスにすべてを委ねられた、それは、罪人である私たちを救おうとする神の愛のみ心の実現が主イエスに委ねられ、それを行う力と権威が主イエスに授けられているということです。つまり主イエスは、ご自分が神から遣わされた救い主だ、ということを自覚しつつ、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足もとに跪いてその足を洗ったのです。それは、「私はこのようにしてあなたがたの救いを実現する」という主イエスの思いの具体的な現れなのです。

十字架の死による救い
 人の足もとに跪いて、最も汚れた部分である足を洗うことは、奴隷にさせるような、誰もが嫌がる屈辱的なことです。自分の誇り、プライドを守ろうとしている人にはできないことです。主イエスはまさに奴隷のようになって私たちに仕えて下さることによって、罪人である私たちの救いを実現して下さるのです。主イエスが十字架にかかって死ぬとはそういうことです。神の独り子であられる主イエスが人間となられたこと自体が既にあり得ないへりくだりですが、それだけでなく主イエスは、私たちの全ての罪をご自分の身に背負って、罪人の代わりに十字架の死刑を受けて下さったのです。それに伴うあらゆる苦痛と侮辱、屈辱を黙って受けて下さったのです。主イエスは、父なる神から委ねられた救い主としての力と権威をこのように用いて下さいました。その力と権威をむしろ全て放棄して、奴隷のような屈辱的な仕方で私たちに仕えて下さったのです。つまり主イエスが弟子たちの足を洗ったことは、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを象徴的に現しています。主イエスはそのようにして私たちをこの上なく愛し抜いて下さったのです。主イエスによる救いにあずかるとは、主イエスの十字架の死による救いにあずかることであり、主イエスによって足を洗っていただくことなのです。

主イエスとの関わり
 6節以下には、主イエスがシモン・ペトロのところに来て、その足もとに跪き、足を洗おうとした時に、ペトロが「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言ったこと、それに対して主イエスが「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とおっしゃったこと、ペトロがさらに「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったことが語られています。ペトロは、主であるイエスが弟子である自分の足を洗うなんてとんでもない、先生にそんなことをさせるわけにはいかない、と思ったのです。それは当然の思いだと言えるでしょう。そのペトロに主イエスは、「このことはあなたには今は分からないだろうが、後で分かるようになる」とおっしゃいました。「後で」とは、主イエスの十字架と復活が起った時に、ということです。弟子たちの足を洗うという行為は、主イエスの十字架の死によって実現する救いを指し示しているのですから、十字架と復活によってその救いのみ業が実現した時にこそ、このことの本当の意味が、主イエスがなぜ弟子たちの足を洗ったのかが分かるようになるのです。しかしここでさらに大事なのは8節後半の主イエスのお言葉です。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。主イエスに足を洗っていただくことがなければ、私たちと主イエスとの間には何の関わりもないことになるのです。主イエスと弟子との、つまり主イエスを信じて従って行く信仰者との関わりは、主イエスが足を洗って下さること、つまり十字架の死によって罪の赦しを与えて下さることにおいてこそ成り立っているのです。十字架の死による救いにあずかるのでなければ、私たちは主イエスと関わりを持つことはできないのです。

主イエスに足を洗っていただいた者こそが
 ペトロは、主イエスに足を洗ってもらうなんてとんでもない、と思いました。自分の一番汚い部分を主イエスに見られたり、触れられたりしたくない、と思ったのではないでしょうか。彼は、自分が主イエスをしっかり信じ、ちゃんと従い、最後まで仕える、そういう立派な弟子でありたいと思っていたのです。しかし主イエスは、あなたが私の弟子であることができるのは、私があなたの足を洗うこと、つまりあなたの罪の赦しのために十字架にかかって死ぬことによってのみなのだ、とおっしゃったのです。ペトロはこの時はまだそのお言葉が分かりませんでした。後になって、つまり主イエスが捕えられ、十字架につけられた時に、自分が主イエスに従い通すどころか、自分の身を守るために、イエスの弟子であることを否定してしまった、という現実を突きつけられ、その挫折の中で復活の主イエスと出会った時に、初めてこのことが分かったのです。主イエスが自分の足を洗って下さったこと、つまり自分のために十字架にかかって死んで下さったことによってのみ、自分は罪を赦されて弟子であることができる、主イエスによる救いにあずかり、独り子を信じる者として生きることができる、ということに気づかされたのです。主イエスの弟子の群れである教会とは、自分で自分の足をきれいにしている者たちの群れではありません。主イエスによって足を洗っていただいたからこそ、弱く罪深い汚れた者である私たちが、主イエスによる救いを証しし、人々に伝えていくことができるのです。

主イエスの十字架による救いで十分
 9節には、ペトロが、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と願ったことが語られています。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という主イエスのお言葉を聞いたペトロは、足だけでなく手も頭も洗っていただいて主イエスとの関わりをより深めたい、と思ったのです。これに対して主イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とお答えになりました。このお言葉は分かりにくくて人々を悩ませてきました。聖書の写本においてもばらつきがあって、原文を確定することが難しいという事情もあります。ある英語の聖書では「既に体を洗った者はもうそれ以上洗う必要はない」となっていたりもします。ペトロは要するにここで、足を洗って下さる主イエスに、それ以上の洗いを求めたわけです。それに対して主イエスは、私があなたの足を洗うことで十分なのであって、それ以上の洗いは必要がない、とお答えになったのです。このことによって、主イエスが足を洗って下さること、つまり十字架の死による罪の赦しは、それだけで十分な救いのみ業なのであって、それ以上の罪の清めは必要がない、ということが語られているのだろうと思います。主イエスの十字架による罪の赦しは、一度限りの、完全なものであって、別の救いをそこに付け加えたり、補充しなければならないようなものではないのです。このことは例えば以下のようなことと関係してきます。私たちは、洗礼を受けることによって、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかります。洗礼を受けた者とは、主イエスによって足を洗っていただいた者、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかった者です。しかし私たちは、洗礼を受けた後もなお罪を犯します。私たちは生きている限り罪人であり続けるのです。そうすると、洗礼を受けた後に犯した罪はどうなるのか、それを赦していただくために、洗礼とは別の罪の赦しの儀式が必要なのではないか、と考えたりすることがあるわけです。しかし、洗礼において主イエスによる罪の赦しにあずかったなら、つまり主イエスによって足を洗っていただいたなら、もうそれ以上洗う必要はないのです。だから洗礼を受けた後の罪はどうなる、と考える必要はないのです。主イエスが十字架にかかって死んで下さったのは、私たちが生涯にわたって犯し続ける全ての罪の赦しのためです。主イエスはそこまで私たちを愛し、この上なく愛し抜いて下さっているのです。洗礼を受けるとは、この主イエスの愛が自分に注がれていることを信じて、それを受け入れ、その愛の中で主イエスと共に生きる者となる、ということです。だから洗礼を受けた者には、もはや別の罪の赦しや清めは必要がないのです。

皆が清いわけではない
 さてしかし、10節の主イエスのお言葉には後半があります。「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。これを受けて11節では「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」と語られています。主イエスを裏切ろうとしている者の存在が見つめられているのです。そのことは2節にも語られていました。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。弟子の一人であるイスカリオテのユダが主イエスを裏切ろうとしていたことが、この最後の晩餐において語られているのです。しかも11節によれば、主イエスはそのことをご存知だったのです。
 主イエスを裏切ったユダが弟子の一人だったこと、そのことを主イエスがご存知だったことは私たちを困惑させます。どうして主イエスは分かっていてユダを弟子にしたのだろうか、あるいは途中で分かったならどうしてユダを追放しなかったのだろうか、ユダについて私たちはいろいろな疑問を持つわけですが、本日の箇所において見つめるべきことは、主イエスを裏切ったユダが弟子たちの中にいたことが2節と10節以下に語られており、それに挟まれて、主イエスが弟子たちの足を洗ったことが語られている、ということです。主イエスは、弟子の一人が悪魔の唆しによってご自分を裏切ろうという思いを抱いていることを知りつつ、弟子たち一人ひとりの前に跪いてその足をお洗いになったのです。当然、ユダの足をもお洗いになったのです。私たちは、弟子の一人の裏切りを知りながら主イエスはどうしてそれを防げなかったのか、と疑問を抱きますが、ヨハネ福音書が語っているのは、ユダもまた弟子の一人であり、主イエスに足を洗っていただいた者、主イエスが愛し、この上なく愛し抜かれた者の一人だった、ということです。その一人が、悪魔のささやきを受けており、裏切りの思いを抱き始めている、そのことを知りつつ、主イエスはそのユダの足もとに跪き、その汚れた足を洗われたのです。このユダのためにも主イエスは十字架にかかって死のうとしておられるのです。ユダのことをも、心から愛し、この上なく愛し抜いておられるのです。この主イエスの愛を受け入れ、主イエスの愛のもとに留まるのか、そこから去って行き、悪魔の唆しに身を委ねるのか、そのことがユダに、そして私たちにも、問われています。主イエスの愛を受けるなら、私たちは主イエスによって足を洗っていただいた清い者であることができます。しかしそれを拒むなら、「皆が清いわけではない」ということになるのです。元々、他の弟子たちは清くてユダだけが汚れた罪人だったのではありません。ペトロを筆頭に弟子たちは皆汚(けが)れた罪人でした。主イエスがこの上なく愛し抜いて下さって、汚(よご)れた足を洗って下さったことによって清くされたのです。その愛はユダにも注がれていたし、私たちにも注がれているのです。

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