「信じる者は永遠の命を得ている」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章41-51節
・ 讃美歌:18、140、458
ユダヤ人たちのつぶやき
五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にする奇跡を行った主イエス・キリストは、「わたしは天から降って来たパンである」とおっしゃいました。そのことは、本日の箇所の直前の、32節後半以降のところに語られています。パンの奇跡を見て主イエスのもとに集まって来た人々に主イエスは、「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とおっしゃったのです。人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めると主イエスは、「わたしが命のパンである」とおっしゃいました。ご自分こそ、天から降って来て世に命を与えるまことのパンである、と宣言なさったのです。これを聞いたユダヤ人たちがつぶやき始めた、というところから本日の箇所が始まります。
最近はネット上でつぶやいたことが瞬く間に拡散していくようになり、それで政治を動かそうとしている人もいるわけですが、この場合のつぶやきは、お互いの間で不平不満、文句を共有してぶつぶつ言うことです。彼らが共有した文句は、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」ということでした。イエスは我々と同じ普通の人間なのに、どうして「わたしは天から降って来た」などと言えるのか、ということです。天から降って来るのは神です。彼らは、主イエスが天から降って来た神であるということにつまずいたのです。ヨセフの息子のイエスで、その父も母も知っているとあるように、彼らはイエスの家族を知っています。第6章の舞台はガリラヤ、つまり主イエスが育った地です。以前からイエスのことを知っている人も多かった。その人々は、我々はあいつがはな垂れ小僧だった頃から知っている、そのイエスが「わたしは天から降って来た」などと言うのは受け入れ難い、と思ったのです。ここから一つ分かることは、主イエスは周りの人々から見て特別に目立った存在ではなかったということです。よく絵にあるように後光が指していたわけではないし、他の人々とかけ離れた清さや威厳を感じさせるような人でもなかったのです。普通の人だったイエスが、ある時神の国の福音を宣べ伝え始め、病人を癒したり、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にするという奇跡を行い始めたのです。そして「わたしは天から降って来た者だ」と語ったのです。それで彼らは、「あのイエスが天から降って来た神であるはずはないだろう」とぶつぶつ言い始めたのです。
教会の中のつぶやき
私たちは、主イエスやその両親のことを直接知っているわけではありません。だからこのユダヤ人たちとは全く立場が違うわけですが、しかし私たちも、イエスが天から降って来た者、つまりまことの神が人間となった方だという教えにはとまどいを感じます。イエスの教えはすばらしいし、弱い者、貧しい者と共に生きたその歩みは見倣うべきものだ、だから人間イエスを尊敬し、その生き方を手本として歩もうというのは分かる、しかし、イエスは天から降って来た独り子なる神だと言われるとよく分からなくなる。分からないというのは、そういうことは信じられない、受け入れ難い、ということです。人間イエスを尊敬し、イエスが歩んだように生きようということだけではどうしていけないのか、その方がよほど分かりやすいし受け入れやすい教えだ、そのように思うことが私たちもあるのではないでしょうか。けれどもヨハネによる福音書は、主イエス・キリストは人間となった神である、ということを繰り返し強調しているのです。この福音書の冒頭の1章1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあり、14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありました。そして18節には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とありました。この福音書は冒頭において、主イエスは肉となってこの世に来て下さった独り子なる神であることを示した上で、そのご生涯を語っているのです。また5章17節には「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という主イエスのお言葉が記されています。主イエスは神を父と呼び、自分は子として父のみ心を行っているのだとお語りになったのです。さらに6章20節で、湖の上を歩いて弟子たちの舟に来られた主イエスが「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいましたが、その「わたしだ」は「わたしはある」という言葉でもあり、それは主なる神がモーセにご自身を現された時に告げられた神のお名前でした。そして本日の箇所の「天から降って来た」という言葉も、主イエスが神であることを告げています。このようにヨハネ福音書は、主イエスが独り子なる神であられることを強調しているのです。そのことを語るためにこの福音書は書かれたと言っても過言ではありません。それは、この福音書が書かれた当時の教会にも、このことに対してつぶやき、主イエスを神と信じるのでなく人間イエスとしてのみ捉えようとする人々がいたからです。ここに語られているユダヤ人たちのつぶやきは、教会の中にあったつぶやきなのです。
父が引き寄せて下さることによって
このつぶやきに対する主イエスの答えが44節以下です。主イエスはここで、ご自分が神であることの証拠を示して人々を説得しようとはしておられません。語られたのは「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」ということです。これは前回読んだ箇所の37節の「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」というみ言葉と同じことを語っています。「わたしのもとへ来る」とは主イエスを信じてその救いにあずかることです。主イエスのもとに来て信じることができるのは、父なる神が主イエスにお与えになった人のみである、と37節では語られており、44節ではそれが言い替えられて、主イエスをお遣わしになった父なる神が主イエスのもとに引き寄せて下さるのでなければ、誰も主イエスを信じることはできない、と語られているのです。つまり、主イエスを独り子なる神と信じる信仰は、イエスが神であることの証拠を示されて納得して信じるようになるというものではなくて、父なる神によって導かれて与えられるのです。
聖書のみ言葉を聞くことによって
父なる神はどのようにして私たちを主イエスのもとに引き寄せ、信仰を与えて下さるのでしょうか。次の45節には「彼らは皆、神によって教えられる」という預言者の書からの引用がなされています。これはおそらく、イザヤ書54章13節の「あなたの子らは皆、主について教えを受け」を指しているのだろうと思われます。そしてこの引用に続いて「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と語られています。この45節が言おうとしているのは、主イエスを信じることは父なる神によって教えられ、そのみ言葉を聞いて学ぶことによってこそできる、ということです。父なる神によって教えられ、そのみ言葉を聞いて学ぶ、それは聖書のみ言葉に聞くということです。神は聖書においてご自身のみ言葉を語って下さっています。この時点ではそれは旧約聖書のことですが、私たちにはさらに新約聖書も与えられています。旧約新約の聖書において父なる神は私たちに語りかけ、教えて下さっているのであって、そのみ言葉によって私たちを主イエスのもとに引き寄せて下さるのです。ですから、父がわたしにお与えになる人、父が引き寄せて下さる人というのは、聖書のみ言葉をしっかり聞く人です。聖書から神の教えを受けることによってこそ私たちは、主イエスが独り子なる神であることを信じることができるのです。それを信じることができずにつぶやきが生じるのは、聖書から神の教えを聞こうとせず、自分の考え、感覚、あるいは人間の常識によって主イエスのことを判断しようとするからです。人間の感覚や常識からすれば、ヨセフの息子で両親のことも知っている普通の人間イエスが天から降って来た独り子なる神であるはずはないのです。しかし聖書から神の教えを聞いていくなら、3章16節にあったように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神のみ心を知ることができるのです。そのように、聖書から神の教えを受けようとする者を、神は主イエスに与え、主イエスのもとに引き寄せて下さいます。また逆に神が主イエスに与え、主イエスのもとに引き寄せて下さっている者は、聖書から神の教えを受けようとするのです。そこに、主イエスは天から降って来た独り子なる神であると信じる信仰が与えられるのです。
主イエスを信じることと父なる神を信じることは一つ
主イエスは天から降って来た独り子なる神であると信じるとは、言い替えれば46節にあるように「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と信じることです。これは先程振り返った1章18節の言葉、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と同じことを語っています。独り子なる神である主イエスによってこそ私たちは父なる神を示され、信じることができるのです。父なる神が主イエスのもとに引き寄せて下さった者こそが信じることができるというのはこのことのためです。独り子主イエスを信じることによってこそ父なる神を信じることができるのです。父なる神を信じることと独り子主イエスを信じることは一つなのです。
天からのパンである主イエスを食べる
独り子主イエスを信じる信仰はこのようにして神によって与えられます。そして47節には、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と語られています。主イエスを信じる者は永遠の命を与えられるのです。なぜなら、48節で主イエスが言っておられるように「わたしは命のパンである」からです。主イエス・キリストは、天から降って来て世に命を与えるパンです。父なる神が天から与えて下さるまことのパンです。このパンを食べる者は、永遠の命を得るのです。そのことが49節以下に語られていきます。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の旅において、神が天から与えて下さったパンであるマンナを食べました。でもそれは、肉体の命のためのパンであって、食べてもまた空腹になり、繰り返し食べなければならないものでした。そして、それを食べて満腹した人々も、寿命が来れば死んだのです。地上のパン、肉体を養うパンとはそういうものです。五千人が満腹した奇跡を体験した人々は、その地上のパンを求めて主イエスのもとに集まって来ました。しかし主イエスは、地上のパンを与えるためにこの世に来られたのではありません。「わたしは天から降って来たパンである」「わたしは命のパンである」とおっしゃったように、主イエスご自身が、父なる神が与えて下さったパンなのです。私たちは、主イエスからパンを与えていただくのではなくて、主イエスというパンを与えられ、食べるのです。主イエスが天から降って来たパンであると信じるとは、天からのパンである主イエスを食べることです。そして主イエスというパンを食べるならば、私たちは死なないのです。永遠に生きるのです。なぜならば、主イエス・キリストは、天から降って来て、人間としてこの世を生きて下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の上で死んで下さったことによって罪の赦しを与えて下さり、そして復活して今や永遠の命を生きておられる、独り子なる神だからです。独り子なる神主イエスの十字架の死と復活があったからこそ、主イエスは命のパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きると言うことができるのです。
独り子なる神主イエスを信じることによって
それゆえに、主イエス・キリストが天から降って来た独り子なる神であるという信仰は、私たちの救いにおいて欠くことのできないものです。人間イエスを尊敬し、その生き方に倣うというのは、確かに分かりやすい、受け入れやすい教えだと言えるでしょう。けれどもその教えにおいては、私たちの罪の赦しは得られません。独り子なる神が私たちに代って十字架にかかって下さったからこそ私たちの罪は赦されるのです。またその教えは、死に勝利する復活と永遠の命をももたらしません。父なる神が、死の力に勝利して独り子主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さったからこそ、私たちも死の支配から解放され、復活と永遠の命にあずかる希望を抱くことができるのです。主イエスが独り子なる神であることを否定して、人間イエスのみを見つめるなら、信仰はこの世の人生にのみ関わる事柄となります。イエスが苦しみ悲しみを負っている人々に同情し、連帯して共に歩み、弱さや貧しさの中にいる者をそのありのままの姿で肯定してくれたことが救いとされ、私たちもそのように、弱さや貧しさの中にいる人をありのままに肯定して共に生きよう、ということになるのです。それは主イエスに従う信仰の一つの面ではありますが、そこでは、人間を捕え支配している罪の力が見つめられることはなく、悔い改めも、罪の赦しも、復活と永遠の命の希望も語られることはありません。しかし聖書は、主イエスが天から降って来た独り子なる神であり、その主イエスが十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことを告げているのです。この独り子なる神主イエスを信じるところに、罪人である私たちをただ恵みによって救って下さる神の愛が示されます。神はこの愛によって私たちを、弱さや罪の中にいるありのままで赦し、救って下さるのです。そして私たちに主イエスという命のパンを食べさせ、主イエスと一つにし、新しく生かして下さるのです。ありのままで救われた私たちはありのままであり続けることはありません。命のパンである主イエスによって豊かに養われて、死なない者となる、つまり死によって自分が滅びてしまうのでなく、それを越えて神が与えて下さる命を信じる者となり、その新しい命を今この人生の中で生き始めるのです。
「既に」と「未だ」
さて本日の説教の題は「信じる者は永遠の命を得ている」です。それは47節の主イエスのお言葉です。主イエスは「信じる者は永遠の命を得るであろう」とおっしゃったのではなく、「信じる者は永遠の命を得ている」とおっしゃいました。主イエスが天から降って来た独り子なる神であると信じた者は、そのことによって既に永遠の命を得ている、とおっしゃったのです。しかし私たちは主イエスを信じた者であっても、永遠の命を得てはいません。信仰者も病気になるし、年をとって弱っていくし、そして誰もが必ず死ぬのです。そのことは、信仰があろうとなかろうと変わりません。主イエスもそのことを見つめておられたから、本日の箇所の直前の40節でこう語っておられました。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。永遠の命は、世の終りの日に復活させられることによって与えられるのです。永遠の命はこの世の人生の中で得られるのではありません。この世の人生は死によって終わるのです。しかし世の終りに、主が私たちを復活させて、永遠の命を与えて下さるのです。私たちはそこに希望を置いて、世の終わりにおける復活と永遠の命を待ち望みつつ生きるのです。しかし主イエスは47節では、「信じる者は永遠の命を得ている」とおっしゃいました。それは先程も申しましたように、主イエスを信じる信仰によって私たちは、神が与えて下さる新しい命、永遠の命を生き始めているということです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストと結び合わされて生き始めた者は、命のパンである主イエスを食べ、既に永遠の命を生き始めているのです。しかしその救いは未だ完成していません。この世の人生にはなお人間の弱さがあり、罪と死の支配があります。私たちは、人間の罪と弱さによる苦しみ悲しみの多い人生を、確実に死へと向かっていく歩みを、主イエスによる罪の赦しを受け、終りの時に神が与えて下さる復活と永遠の命を待ち望みつつ、それゆえに苦しみや悲しみにおいても忍耐して、希望を失わずに歩むのです。主イエスによる救いにおける「既に」と「未だ」の両方を見つめつつ生きるのが私たちの信仰の歩みです。命のパンである主イエスは、その歩みにおいて私たちを養い、生かして下さるのです。
世を生かすためのわたしの肉
51節の終りには、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とあります。これまでは私たちを生かすまことのパンのことが語られてきましたが、ここで突然それが「肉」という言葉に変わっています。そしてこの後のところでは今度は主イエスの肉を食べ、血を飲む、という話になっていきます。これは明らかに、本日も私たちがあずかる聖餐を意識してのことです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされた者は、聖餐のパンと杯にあずかり、独り子なる神主イエス・キリストの肉と血とをいただくのです。それによって、主イエス・キリストが十字架の死によってなし遂げて下さった罪の赦しと、その復活によって父なる神が私たちにも約束して下さった復活と永遠の命の恵みを体全体で味わい、その恵みに養われて歩むのです。この聖餐こそ、天から降って来た生きたパンである主イエスを食べて私たちが生かされるために主が備えて下さった食卓です。洗礼を受け、聖餐にあずかっている私たちは、主イエスの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命が自分に既に与えられており、新しい命を生き始めていることを確信することができます。それと同時に聖餐は、未だ永遠の命が実現しておらず、人間の罪や弱さによる苦しみ悲しみに満ちているこの世の人生において、私たちを生かす命のパンです。聖餐において命のパンである主イエスを食べ、主イエスと一つとされることによって私たちは、世の終わりに約束されている復活と永遠の命を信じて待ち望みつつ、人間の罪と弱さによる苦しみ悲しみの多いこの世を、忍耐して、希望を失わずに生きていくのです。
九月第一の主の日、聖書のみ言葉に聞き、聖餐にあずかり、天から降って来た生きたパンである主イエスを食べて、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という恵みにあずかりたいと思います。まだ聖餐にあずかることのできない方々、洗礼を受けておられない方々をも、父なる神がここに、主イエス・キリストのもとに引き寄せて下さいました。そうでなければ皆さんがこの礼拝に来ることはなかったのです。「天から降って来たパンである」主イエスを信じて、独り子なる神主イエスと結び合わされる洗礼を受けるなら、皆さんも、世の終わりに完成する永遠の命を、今この人生において生き始めることができるのです。