「霊に仕える努めとは」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:出エジプト記 第34章29-35節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第3章7-11節
・ 讃美歌:351、451、483
霊に仕える務めとは、聖霊なる神様の働きに身を委ね、導かれて、何が神様の御心であるかということを知って、その御心に従って歩むことです。わたしたちが、自分自身で救いを獲得するのではなく、自分自身で義しくなるのではなく、聖霊なる神様がわたしたちをかえてくださる。その聖霊なる神様の働きに身を委ね、導かれ、神様の御心に従う時に、わたしたちは神様の栄光に包まれ、輝きを与えられ、世に神様の光を宣べ伝えることができるのです。世に栄光を示すこと、これがもう一つの「霊に仕える務め」です
パウロは本日共に聞いた御言葉の中で、「文字に基づく死に仕える務め」のこと、そして9節にある「霊に仕える務め」のことについて語り、その二つに現れる神様の栄光の差のことを、語っています。7節の「石に刻まれた文字に基づく務め」というのは、これは人を律法に従わせる務めのこと、また、人を罪に定める務めであると書かれています。一方、「霊に仕える務め」とは、「人を義とする」つまり「人を神の前で義しい」とすることための務めであるとパウロは語っています。パウロは、自分は「霊に仕えるものである」と考えています。では、パウロが人を義とする務めについているのなら、パウロには、誰かを「あなたは義しい人である」「あなたは正しくない」というように、宣言できるような力あるということかという、そうではないではないでしょう。パウロにもそのような力はありませんが、この世の誰も、そのような権威や力もってはいません。 正しい人でないと神様の前にでることができない。つまり人を義とするということは、人が神様の前に立つことが出来るようにするということです。神様の前に立つことが出来るように務めというのは、あなたは正しいとか正しくないとかをジャッジする仕事のことではありません。そうではなくて、神様の前にたたせることです。何人たりとも、人を正しい人間に換える力、神様の前に立つにふさわしいものに変える力持ってはいません。そしてこの世の誰も、生まれつき神様の前に立つにふさわしい正しい者ものではありません。そして自分の力でも、神様の前に立つにふさわしくなることはできません。だれもそのような務めをなすことができないのですが、ただ神様だけがその務めをなさることできます。 誰が人を義しいものとすることができるのか。その方は神様です。人を正しいものとするということは全く神様の恵みによることで、私たちの力ではどうすることもできないことです。しかし、私たちはそのことを考え違いして、何か一生懸命いいことをすれば神様に受け入れられ、神様の前にたつ正しいものとして認められると考えていることが多いと思います。しかし、私たちが神の民となるのは全く神様の一方的な恵みよってです。このことは、たとえば、イスラエルの人たちがどのようにして神様の民になったかということを考えてみますとすぐ分かります。彼らは、何か一生懸命神様の気に入るようなことをしたから「よし、お前は神の民にしてやる」と、神様が決められたのではありません。エジプトにいた時に奴隷で苦しんでいた彼らを神様が救い出して下さいました。それは彼らの行いや功績でなく、神様がイスラエルの人々を憐れに思って、救いだしてくださったのです。
それと同じように、私たちが神様の前にたつ正しいものとして受け入れられるということは、何か私たちに資格があるとか、功績があるとか、値打ちがあるとか、そういうことではありませんで、全く神様が一方的に私たちを神様のものにして、正しいものとして認めて下さったからです。神様は聖なる方でありますから、罪にまみれている私たちをそのまま、神様のものにするわけいきません。正しいものにしなければなりません。そこで私たちの罪をあがなうことが必要となります。正しいものとして受け入れるためには、私たちの罪を代わりに背負って、その罪の責任をちゃんと償うものがなければならない。その代わりの償いが神の独り子であるイエス・キリストの十字架の死でありました。そのイエス様の犠牲により、わたしたちは正しいものとして認められました。ですから、人を義とさせる務めというのは、これは神様の側の働きで、わたしたちの働きではありません。
しかし考えていると、一つ疑問が浮かびます、それは正しい者と認められ、神様のものになったものはなにもしなくていいのかということです。「霊に仕える務め」がわたしたちにはあるといっても、人を義にするのは、神様の業で、わたしたちの業でなければなにもすることがありません。ですから、わたしたちは正しいとされた者として、どのような務めをすればいいのか、どのように生きて生活をしていけばいいのかということが問題になります。これは今日、私たちがいつも背負っている問題であり、クリスチャンとして、神様の民として、毎日の生活をどう生きて行ったらいいかということです。普通に考えますと、神様の子とされ正しいものとして認められたのだから一生懸命正しい行いをしなければいけない、神様のおきてを守ることが大事というふうに考えると思います。しかしこれは旧約聖書の考え方です。出エジプト記の20章のところには、十の戒めが書いてあります。その戒めを具体的な事柄に当てはめて行ったものが、旧約聖書にあるたくさんの戒めです。そして熱心なユダヤ人たちは、一生懸命になってその律法を守ろうとしていました。
このコリントの信徒への手紙二を書きましたパウロもまたその一人でありまして、特にパウロは律法に精通していた者であり、人に教える立場の者でした。一生懸命律法を学んで、そしてそれを人に教え「これをちゃんと守りなさい。神の民なんだから、これをちゃんと守らなければいけない」と教えていました。ところが、そのパウロは、「律法は神様の御心である、律法を守れば神様の御心にかなう生活ができる」と固く信じていたのですが、意外なことに、律法に従っていたはずの自分が実は神様に敵対していたということに気付かされました。これはわたしたちが使徒行伝の9章のところで、パウロの回心の出来事を読めばわかることです。パウロという人は「イエスは神の敵である」と信じて、イエスを信じるクリスチャンたちを一生懸命迫害してきました。なぜ迫害をしたかと言うと、クリスチャンたちは「イエス様を信じる」ことによって救われると言っていた。これはパウロの律法の理解から言えば、全く律法に反することでした。パウロは選ばれたものが、ちゃんと律法を守り神の民として生きることができたら救われると考えていた」だから「イエスという人を信じるなんてことは、これは神様に敵対することだ」とそう思っていたのです。ですから、一生懸命、力を尽くしてクリスチャンたちを迫害しました。ところが「そのイエスが、実は神の子である」ということを知らされました。そうすると、自分は一生懸命神様に仕えていると思っていたのに、実は、それが神様に敵対することであった、律法を一生懸命守ろうとしたことが、実は、神様に敵対することだったという、驚くべき事実に出会ったわけです。
どうしてパウロがそうなったのか。それは、律法が神様の御心だと信じて律法を守るということばかり一生懸命考えていたために、その神様が語りかけて下さる活きた言葉というものを聞こうとしなかったためです。「神様がイエス・キリストによって私たちに語りかけて下さること」それが「神様のみ言葉」です。律法は文が決まっており固定されていますから、わたしたちがこれを守ろうとする時、自分たちで解釈をしなければなりません。これはこういう意味で、今、神様はこういうことを求めているのだと、自分で解釈をして、そしてそれに従う。パウロはそういうふうに律法を解釈することによって、イエスの弟子たちを迫害することが神様に従うことだと思っていました。ここに律法というものが持っている一つの大きな問題があります。律法は、それ自身が神様の代わりとして考えられるようになると、神様と私たちの間に立ちふさがってしまって、神様の活きた言葉を聞くことができないようにしてしまうのです。しかし、今まではそういう律法に頼るしか、神様との関係を考えることはできなかった。これが旧約の時代の信仰生活です。
しかし、そういう律法に支配されている生き方というものが、キリストの十字架において全く変えられてしまった。これがロマ書6章に言われていることであって「私たちの古い人は、キリストと共に十字架につけられて死んでしまった」と言っています。「死んでしまったと言うけれども、体はぴんぴんしているじゃないか」と反対したくなる人もいるかもしれません。しかし、死んだというのは律法につながれていた「私たちの古い生き方」がもうここで終わってしまって、全く違う生き方が始まったということです。どういうふうに違う生活と言うと、律法によらないで、神様の活きたお言葉を聞いて、それに従う生活であるということです。
そういう生活をしていた者は旧約の時代にいました。例えば、モーセです。神様からホレブの山のふもとで召されて「お前は、エジプトへ行ってイスラエルの人たちを連れ出して来い」と言われてそれに従ったのですが、これは律法ではなくて神様の活きたお言葉です。神様の生きた御言葉に従ってモーセはエジプトへいきました。その後も事あるたびに、モーセは「神様、どうしたらいいでしょうか」と神様に尋ね、神様の言いつけに従って行動をしました。そのように、神様に向き合い、神様の言葉を聞き、神様の生きた言葉に従ったモーセの顔は、光り輝いていたということが今日の共に聞いた出エジプト記34章に書かれていました。ここから神様の活きた言葉を聞きそれに従うものに、神様の栄光が示されるということがわかります。パウロはモーセが民に律法に従わせる務めをしていたので、神様の栄光がモーセの顔に表れたと少し勘違いをしています。パウロはモーセが律法に従わせる務めの故に、モーセは神様から栄光を与えられ、顔が輝いているとパウロは考えていますが、実際は、出エジプト記を読むと、モーセの顔が輝いていたのは、その務めのためではなく、出エジプト記34章29節をみると、「神と語り合っている間に、自分の顔の肌が光を放っている」と書かれているので、神様と向き合い 神様の言葉を聞いていたために、モーセは顔に神様の栄光を帯びたのです。
では、モーセのように神様に近い人、預言者のように神様の霊がくだるような特別な人、パウロのような使徒しか、神様の栄光が受けられないのかといえば、そうではありません。いまや、わたしたち一人一人が神様の言葉を聞き、神様の御心を知ることができるようなりました。そのことは、使徒言行録のペンテコステの記事からわかります。使徒言行録の2章のところにペンテコステの出来事が書いてあります。このペンテコステの出来事をペトロが、そこにいたすべての人に説明をするために、預言者ヨエルの言葉を引用しました。(215頁の下の段ですが)2章の17節以下にこうあります。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。』その意味は「昔は神様の霊を受け、あるいは、神様のお言葉を聞くということは、ある非常に限られた人、預言者だけであった。しかし、終わりの時、すなわち、キリストが来られてから後には、神様の霊をすべての人に注ぐ。キリストを信じる者みんなが、聖霊を受けることができる。神様の御言葉を聞くことができる」ということです。ペンテコステの日に大きな変化が起こりました。モーセだけではなく、使徒たちだけではなく、預言者だけではなく、キリストを信じるすべての人が神様の霊を受け、神様の活けるお言葉を聞くことができるようになった。だから、律法を守るということでなくて、その神様の霊に導かれて神様の御心を知ることができる、そういう時が来た。こういうことを言っています。だから、今、イエス様を信じているわたしたちもまた、神様の言葉と御心を知ることができ、栄光を受けることができるものとなっているのです。
そのように「霊に仕える務め」「霊に従う生活」とは、神様を見つめ、何が御心である尋ね求め、言葉をいただき、その御心に従うことです。しかし、具体的には、毎日どういう生活をしたらいいだろうかとわたしたちは悩むと思います。神様が導いて下さるというのならば、箸の上げ下ろしまで神様が「上げなさい、下げなさい」と言われるのか。神様が「あなたは今夜の晩御飯になにかを食べなさい」と、そこまで細かく指示与えられるのか。そういうことまで神様が言われるのかというと、そんなことはありません。そうすると結局「では神様の御心など分からないではないか」ということになります。これが、わたしたちが信仰生活の中で、いつも困ることではないかと思います。わたしたちは律法から解放されているから、律法に従っていちいち規則に照らして「いいか、悪いか」ということを決めるわけではありません。しかし、逆に何から何まで神様が「ああしなさい、こうしなさい」という声が天から降ってきて命令をして下さるかというと、そうでもない。ではどうしたらいいか。これが、おそらくわたしたちが毎日生活をしている上で、大変困ることではないかと思います。それについて、聖書はいくつかのことを私たちに手引きとして与えてくれています。
一つは、パウロがコリントの信徒への手紙一の13章で語っています。「愛」ということです。愛から出ない行為は全部無益である。たとえ、自分の身を犠牲にするようなことをして人から称賛されても、あるいは、自分の全財産を施すようなことをして人々から褒められても、もし、それが愛から出ていなければ何にもならないと言っています。そこで一つ考えられることは「私が今していること、あるいは、今言っていることは本当に愛から出ているか」ということを振り返ってみる。これは一つのヒントとなるでしょう。
もう一つ大事なことが言われています。それは神様の御心というものは、漠然と、ただ聖霊によって示される、ということではなくて、イエス・キリストを通して知らされているということです。イエス・キリストは神の言であると言われています。これはヨハネによる福音書一章の初めのところ「初めに言があった」と書かれてあるところです。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」肉体をとって人間になってきて、人間の姿で行動をし、人間の言葉で私たちに御心を語って下さったイエス・キリストを通して、初めて本当に具体的に神様を知ることができる。そういうことが言われています。ですから、神様の御心を知るということは「キリストを知る」ということであります。イエス様が聖霊について言われたことは「聖霊は自分勝手なことを話すのではない。わたしについて証をするものだ。いつでも私と聖霊を離さないように」とイエス様はおっしゃっていました。わたしたちが、聖霊の導きだと言って何か大変主観的な、気分的な行動をするということは、これは間違いです。本当に聖霊の導きであるかどうか、ということはイエス様に立ち帰って「イエス様がそう言っておられるかどうか、イエス様が言われていることにちゃんと合っているかどうか」それを確かめる。これがもう一つの大事な点です。
しかし、筋道はそうであっても、しかし、それならば、いつでも私たちがそういう生活ができるか、と言うとなかなかそのようにはなりません。信仰の歩みにおいて、考え違いや思い違いをすると、イエス様から離れて迷い出てしまったり、大きな苦しみ悲しみに直面すると、その苦しみや悲しみのあまりにその場で立ち止まってしまい動けなくなることもあります。しかし、だから「もう私は駄目だ」と言って絶望することはありません。なぜならば、キリストは「迷える一匹の羊を捜すためには、九十九匹を野原に置いておいて捜しに行く。そして見つけるまでは捜す」と言われました。私たちがとんでもないところへ迷い出ても、立ち止まってしまって置いてけぼりのようになっていても、イエス様は私たちを捜し求めて、また神様の御心に従うように導いて下さる。イエス様は一方において私たちの模範であり、お手本でありますが、それだけでなく同時に私たちの助け手であり、私たちを迷いから引き返す活きた働きをしておられる。そのイエス様に導かれて生きて行くのが信仰生活であります。ですから、聖霊に仕える務めということは、言葉を換えて言うならば、キリストが私のなかで御業をなさって下さるということを信じて、イエス様に自分を委ねる、そういうことでもあります。このように神様がちゃんと活きた手立てを立てて下さっているので、わたしたちは安心して信仰の歩みができるのです。
しかし、それならば自分のしたいほうだいをしてもいいのか、というとそうではなくて、自分のしたいほうだいをするその古い人間という者は、キリストの十字架においてすでに死んでしまった。私はもう新しい人間になったのです。では新しい人間というのはどういう人間か。これは私たちの質が変わったということではないのです。自分の努力でよい人間になろうという生き方がなくなって、神様の働きで、神様に従っていく生き方に変わったのです。パウロは「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの内にあって生きておられるのである」と言いました。そういう者に変えられたということです。言葉を換えて言うならば「聖霊によって生きる人間になった」ということです。今までは自分の力で自分の努力で生きてきた人間、しかし、それが今は聖霊に導かれて、神様に生かされて生きて行く人間に変わった。これが十字架において死んで新しく生まれた人間の姿です。
信仰生活というのは私たちの力でなすことはできません。私たちはイエス様に贖われ、聖霊に導かれて生きて行く者になりました。もうひとりではなくって、手を取って導いてくださる方がいる。わたしたちが思い悩む時にもう一度このことを思い返しましょう。自分で頑張って乗り越えなければいけないというのではなく、ぼろぼろになって、倒れて、どうにもならない、そういう時にも必ず私たちを支えて祈っていて下さる聖霊なる神様がわたしたちの内側にいてくださっています。その聖霊なる神様の支えに導かれて私たちは今生きております。もう一度わたしたちは「私は支えられている」ということを思い返したいのです。そこで、慰めが与えられ、希望を持って、一切を主に委ねて生きて行く。そこには必ず、新しい光が与えられ、力が与えられ、望みが与えられます。その与えられたものが、神様の示すお力であり、それが神様の栄光です。この栄光は、あのモーセのように、神様と真正面に向き合って、神様の言葉を聴く時にわたしたちに与えられるのです。その栄光の光源、光の源は父なる神様です。照らしだされた光がイエス様です。その光を見つめる時にわたしたちは、栄光と喜びに満ち溢れるのです。文字や律法、条件に向き合っているならば、わたしたちの顔には、その栄光の光は映しだされません。神様との関わりにおいてのみ、わたしたちは、救いと希望と力が与えられ、輝くのです。ですからイエス様を見つめ、父なる神様から栄光を頂き、聖霊なる神様の導きに身を委ね、この顔を輝かせていただきましょう。そしてこの輝く顔を持って、この世に主の栄光を照らしてまいりましょう。それがわたしたちの使命です。輝く顔を持って、この世に、隣人に、主の栄光を照らしてまいりましょう。