主日礼拝

希望、喜び、誉れ

「希望、喜び、誉れ」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; ホセア書、第11章 8節-9節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第2章 17節-20節

テサロニケ再訪の願い
 本日与えられている新約聖書の箇所、テサロニケの信徒への手紙一の第2章17節以下のところには、「テサロニケ再訪の願い」という小見出しがつけられています。以前に申しましたように、この手紙を書いた使徒パウロは、敵対する者たちが起した騒動のために、テサロニケの町を去らなければなりませんでした。その滞在は長くて数カ月だったろうと思われます。数カ月の伝道で、何もなかったところに、信じる者たちの群れである教会が誕生したのです。それはすばらしい恵みの出来事でした。そうであればこそ、そのテサロニケの教会の人々を残して去らなければならなかったパウロの心は、残念な、心残りの思いでいっぱいだったでしょう。まだまだ、ここでなすべきことが沢山あるはずだ、それによって与えられるであろう豊かな実りがあるはずだ、と思っているのです。だからパウロは、なんとかしてもう一度テサロニケに行きたいと切に願いました。その思いが、本日の17節に言い表されています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」。「あなたがたからしばらく引き離されて」いる。その「引き離されて」という言葉は、直訳すれば、「孤児とされている」という意味です。何らかの理由で、親から引き離されてしまった子供が、親を慕って嘆き悲しむように、そのようにパウロは、テサロニケの人々から引き離されたことを嘆き悲しんでいるのです。
孤児とされて
 これまで読んできた2章の前半において、パウロは、テサロニケの人々に対してある時は母親のように、ある時は父親のように対してきた、と言っています。伝道者パウロにとって教会の人々はある意味で自分の子供たちのようなものなのです。そういう意味では、親である彼が子供である教会の人々から引き離されたのですから、孤児とされたのは教会の人々の方で、パウロではない、という話になります。横浜指路教会の皆さんも、主任担任教師不在の間、孤児とされたような思いを抱いてこられたのではないでしょうか。そして、私がこちらに参りましたことで無牧となった富山鹿島町教会の方々も今同じような思いを抱いているのかもしれません。伝道者、牧師と教会との関係においては、それが自然なことのようにも思うのです。ところがパウロはここで、教会から引き離されたことで自分が孤児になったと言っている。これは不思議な言葉だと言えるかもしれません。
伝道者と教会
 けれども実はこれは、不思議でも何でもないのです。まさにこの通りなのです。伝道者と教会との関係というのはまさにこういうものなのです。伝道者が教会を去る、それはパウロのように、何らかの事情で心ならずも去らなければならなくなることもあるし、自らの決断によって去る場合もあります。いずれの場合においても、教会の人々がそれによって孤児とされたような思いを抱くのと同時に、去る伝道者の方も、孤児となったような悲しみ、大切なものを失ったような空虚感を覚えるのです。つまり、伝道者にとっても、教会は、自らの存在の基盤であり、自分を養い、育み、支える拠り所なのです。伝道者、牧師が教会の人々を牧し、養い、支える、それも一面の真理です。伝道者はそのために立てられています。けれどもその伝道者自身も、実は教会の人々によって養われ、支えられ、生かされているのです。それは経済的に生活を支えられている、という話ではありません。パウロはテサロニケの教会の人々によって生活を支えられていたのではなく、自分の食い扶持は自分で稼ぎつつ伝道していました。そのことは2章9節に語られています。伝道者が教会によって養われ、支えられるというのは、信仰におけることです。自分が、み言葉を語る者として立てられ、遣わされ、その自分の語る言葉が、先週の箇所に語られていたように、教会の人々によって神の言葉として聴かれる、そういう体験を通して、伝道者自身が豊かに養われ、育てられ、生かされるのです。それゆえに、その教会から引き離された伝道者は、自分が孤児になったような寂しさを覚えるのです。そのように、教会の人々も伝道者の語る言葉によって養われ、伝道者も教会の人々によって養われ、育てられる、それが、キリストの体である教会の本来の姿です。伝道者は、教会の外に立って、学校の教師が生徒とは一線を画しつつ勉強を教えるようにみ言葉を語るのではありません。伝道者も教会の人々も、つまりみ言葉を語る者も聴く者も、共に、キリストの体である教会に連なっているのです。そしてそこで、共に主イエス・キリストの生命と恵みにあずかり、生かされているのです。そしてもし両者が引き離されれば、お互いが、親を失ったような、孤児になってしまったような悲しみ、寂しさを覚えるのです。パウロとテサロニケの教会の間にはそのような関係がありました。パウロとは比べものにならない者ですが、私自身も、富山の教会において、教会の方々とそれに似た交わりを与えられていたことを感謝しています。今度は、この横浜指路教会の皆さんとの間に、そのような関係を築き上げていくために努力したいと思っています。それによって、テサロニケ教会がそうであったように、この群れからも、主の言葉が響き渡っていくことになるでしょう。
サタンの妨げ
 さてパウロは、テサロニケの教会から引き離されたことを嘆きつつ、しかし、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが」と言っています。直訳すれば、「顔においてであって、心においてではない」です。あなたがたから引き離されたのは、顔、つまり肉体的、物理的な面においてのみであって、心はいつもあなたがたと共にある、ということです。体では引き離されたが、心ではいつもあなたがたのことを思っている、それは1章2節で、「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして」いると言っていたこととつながります。私たちもよく、「あなたのことを思って祈っています」というような言い方をします。けれどもパウロは、心で思い、祈るのみでなく、顔においても再びテサロニケの人々と会いたいと切に望んでいました。それで、18節にあるように、実際にテサロニケに行こうと一度ならず計画を立てたのです。しかしそれを果たせずに今に至っています。パウロがテサロニケに行こうとしたができなかった具体的事情はわかりませんし、それを詮索することは無意味でしょう。大事なことは、彼がそれを「サタンによって妨げられた」と言っていることです。テサロニケにもう一度行って教会の人々と会い、あの町の伝道をさらにおし進めたいというパウロの願いが実現していない、そのことを彼は、サタンの妨げによることと理解しているのです。
 サタン、つまり悪魔によって妨害されている、それは随分大げさなことのように私たちは思います。また、どういうことがサタンの妨害に当たるのだろうか、と考えたりもします。けれども、そんなふうに大げさに考える必要はないと思います。パウロが体験しているのは、自分がよいと思って計画したことがその通りにならない、思ったように事が運ばない、願いが適わない、ということです。そういうことは私たちもしばしば体験します。自分がこうしたらよいと思うこと、それは単なる自分の欲望や願いではなくて、家族や友人たちのために、あるいは地域の人々のために、さらには教会のために、神様のために、こうなることが望ましいと思うことです。そういうことを私たちは願い、計画し、実現しようと努力します。そのように、明らかにこれがよいことだと思われることが、しかし実現しない、うまくいかない、思った通りにならない、ということがあるのです。そのような時に私たちは、このよいことを妨げている力を感じます。それはサタンの力と呼ぶしかないようなものです。パウロにとって、テサロニケ再訪の計画は、教会のために、伝道の進展のために明らかに望ましいことでした。しかしそれが実現しない、そこに彼はサタンの妨げを感じたのです。同じことを私たちもしばしば体験します。サタンの妨げは私たちの身近なところにも沢山あるのです。
あなたがた以外の誰が
 サタンに妨げられたことによって、テサロニケの人々と再び会いたいというパウロの願いはますます募っています。その熱い思いの中で彼は、19節を語っているのです。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか」。あなたがたこそ、私たちの希望であり、喜びであり、誇るべき冠である。さらに20節には、「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」とも言われています。パウロが、テサロニケの教会の人々のことをいかに愛し、大切に思っているかがこれらの言葉から分かるのです。この19、20節をさらに深く味わっていきたいと思うのですが、先ず考えたいのは、「あなたがた以外のだれが」という言葉です。この訳をそのまま読めば、あなたがたテサロニケの教会の人々以外に、私たちにとって希望、喜び、誇り、誉れである人は誰もいない、という意味にとれます。そうなると、他の教会の人々、例えばテサロニケに来る直前に伝道がなされ、やはり教会が生まれたフィリピの教会の人々などはどうなのだろうか、彼らはパウロにとって希望や喜びや誇りや誉れではないのだろうか、という疑問が湧いてきます。そうなるとパウロは随分テサロニケの人々を偏愛し、えこひいきをしているようにも思えます。この疑問に対してまず指摘すべきことは、原文において、「あなたがた以外の誰が」の「あなたがた」の前に、英語で言えばandに当たる言葉があるということです。つまり、「あなたがたも」と言われているのです。しかしこれを日本語の訳に表わすことは難しいです。「あなたがたも、以外の誰が」では文章になりません。日本語以外でも、このandを生かして訳すことは難しいようです。しかしここの原文に「あなたがたも」とあることの意味は大きいのです。この小さな一言によって、パウロが希望、喜び、誇り、誉れとしているのは、テサロニケの教会の人々だけではない、ということが示されるのです。主イエス・キリストの福音を信じ、キリストに結ばれて生きている全ての人々が、パウロの希望、喜び、誇り、誉れです。あなたがた以外の誰が、の「あなたがた」には、テサロニケ教会の人々だけではなく、キリストに結ばれている信仰者たち全てが含まれているのです。
再臨の主の御前で
 けれども、この19節を読む上でもっと大事なのは、「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」という言葉です。パウロが、テサロニケの人々のことを、「わたしの希望、喜び、誇り、誉れ」であると言っているのは、将来もう一度この世に来られる主イエス・キリストの御前でのことなのです。主イエスがもう一度来られる。それはいわゆるキリストの再臨のことです。「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐し」ておられる主イエスが、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と使徒信条にあるのが、キリストの再臨です。私たちの救い主、イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活されただけではなく、いつか、この世の全てを審く方としてもう一度来られるのです。それによってこの世は終わり、神様のご支配、神の国が完成するのです。そしてその終わりの時に、私たちは皆、再臨の主イエスの御前に立つのです。そのことを信じ、待ち望むことが、主イエス・キリストを信じる信仰です。テサロニケの人々がパウロから聞いた神の言葉はそのことを語っていました。そのことを私たちは既に1章の10節において読みました。そこには、「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを」とあります。テサロニケの人々の信仰は、御子イエス・キリストが天から来られるのを待ち望む信仰だったのです。パウロはその御子イエスの再臨を、つまりこの世の終わりを見つめながら、もう一度来られる主イエスの御前で、あなたがたはわたしの希望、喜び、誇り、誉れだと言っているのです。ということは、パウロがここで覚え、語っている希望、喜び、誇り、誉れは、現在ここにあるものではありません。テサロニケ教会の、さらにはその他のキリストに結ばれている諸教会の、現在の姿、有り様を見つめて、それが自分の希望、喜び、誇り、誉れだと言っているのではないのです。現在の教会の姿には、様々な弱さがあり、欠けがあります。サタンの妨げがあそこにもここにも働いていて、神様の栄光が表わされることを妨害しているのです。しかしそれでもパウロは、テサロニケ教会のことを覚えて祈る度に、神様に感謝しているし、彼らのことを希望、喜び、誇り、誉れと呼んでいるのです。サタンの妨げはなお続いていて、テサロニケ再訪は実現していないけれども、それでもパウロのこの手紙は喜びと感謝に満ちているのです。何故そのように語ることができるのか。それは、彼が、主イエスが再び来られる世の終わりを見つめているからです。その時には、主なる神様の恵みのご支配が完成するのです。その時には、今私たちの歩みをいろいろな仕方で妨げているサタンの力が滅ぼされるのです。そして私たちは、主イエスの復活にあずかり、全ての罪から解放されて、新しい命、永遠の命を生きる者として主イエスの御前に立つのです。教会の人々に、終わりの日に与えられるそのような完成された姿を見つめているがゆえに、パウロは彼らを自分の希望、喜び、誇り、誉れと呼ぶことができるのです。またその終わりの日には、テサロニケの教会とか、フィリピの教会とか、あるいは横浜指路教会とか、そういう違いは意味を失うのです。キリストに結ばれている全ての者が、その御前に立って、救いにあずかるのです。パウロがここで「希望、喜び、誇り、誉れ」と言っているのがテサロニケの教会の人々だけのことではない、ということはこのことからもはっきりします。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」ということを見つめるなら、今のこの世におけるいろいろな違いは意味を持たなくなるのです。
誇り、誉れ
 パウロはこのようにここで、世の終わりの、主イエス・キリストの再臨を見つめつつ語っています。パウロの目は、現在の、目に見えている現実のみを見つめているのではないのです。そのことをわきまえて読む時に、パウロがここでテサロニケ教会の人々のことを、自分の「誇るべき冠」だとか、「誉れ」であると言っていることの意味が分かるのです。「誇るべき冠」という言い方は、読みようによっては、パウロが、テサロニケの教会の人々のことを、自分の伝道の成果、自分の働きによって生み出された実りとして自慢しているようにも感じられます。テサロニケの教会は、これまで読んできたところに語られていたように、パウロの語る言葉を神の言葉として受け入れ、キリストの福音を信じて、その信仰によって働き、愛のために労苦し、キリストの再臨を待ち望む希望を持って忍耐しつつ歩むすばらしい信仰の群れとなりました。彼らの様子が至るところで語り伝えられ、そのことによって彼らから主の言葉が響き渡っているのです。つまりテサロニケ教会は、諸教会の模範となるような群れだったのです。そのような群れを生み育てたのは私だ、とパウロは自分の働きを誇っているのでしょうか。また20節の「誉れ」という言葉は「栄光」という意味でもあります。パウロはテサロニケ教会のことを自分の栄光として誇っているのでしょうか。彼が現在の教会の姿だけを見つめてこのように語っているなら、そういうことになるでしょう。しかし彼がここで見つめているのは、終わりの日に、主イエスの再臨において実現する救いの完成なのです。そうであれば、たとえ「誇るべき冠」「誉れ、栄光」という言葉が用いられているとしても、そこで見つめられているのは、パウロの働きやその実りではなくて、主なる神様のみ業です。終わりの日、主イエスの再臨の時に、神様がその恵みによって私たちの救いを完成し、御前に立たせて下さるのです。パウロはその希望に支えられて、神様に感謝し、喜び、讃美しているのです。
終末を見据えて生きる
 パウロは、終わりの日の、主イエスの再臨において実現する救いの完成を見つめている、つまり、世の終わり、終末を見据えて生きているのです。終末を見据えて生きるとは、「ナントカの大予言」のような、何年何月には大きな破局が襲ってこの世が滅びる、ということを考えたり予測したりして生きることではありません。私たちが見据える終末とは、「わたしたちの主イエスが来られるとき」です。その主イエスは、神様の独り子、まことの神であられるのに、私たちと同じ人間になって下さり、さらには私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さった方です。そのようにして、私たちに代って死んで下さり、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さった方です。父なる神様はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちは、罪の赦しと、死に勝利する復活の命にあずかる恵みの約束を与えられているのです。その約束が実現するのが、主イエスの再臨による世の終わりの日です。主イエスがもう一度来られてそのご支配があらわになることによって、私たちの救いも完成するのです。つまり私たちにとって、終末は、待ち望むべき救いの日、最終的な希望の日なのです。終末を見据えて生きるとは、この究極的な希望をしっかり持って生きることに他なりません。その時私たちの歩みは、感謝と喜びを基調とするものとなるのです。様々な苦しみが、そして死が襲って来ても、それによって絶望してしまうことのない、常に希望を失わない歩みとなるのです。言い換えれば、苦しみや悲しみの現実の中でも、希望、喜び、誉れを失わずに生きる者とされるのです。パウロがここで、テサロニケの教会の人々のことを思いつつ語っているのはまさにそういうことです。私たちの、現在の、目に見える現実には、サタンの妨げがあります。思いどおりにならないこと、良いことのはずなのにうまくいかないことが多々あります。そのような中でパウロは、終末において神様が完成して下さる救いを見つめ、そこに希望と喜びと誉れを見出しているのです。終末を見つめることなく、現在の自分の歩みとそこにおける目に見える現実のみを見つめているならば、私たちは、本当の意味で希望と喜びに生きることはできないでしょう。たとえ今うまくいっており、喜びがあるとしても、それがいつまでも続くわけではない、いつ失われてしまうかもしれない、そういう不安につきまとわれるのです。また、目に見える現実における自分の誉れ、栄光を追い求めて生きることは、いつもこいでいなければ倒れてしまう自転車に乗っているようなもので、いつか疲れ果ててしまうことになるでしょう。終末における神様による救いの完成を信じて待ち望む信仰によってこそ、私たちの人生は真実の希望と、喜びと、誉れのあるものとなるのです。
よき交わりのために
 さらにもう一つ、パウロがテサロニケの教会の人々と、ここに描かれているようなすばらしい関係を結ぶことができたのも、彼が、教会の人々との交わりにおいて、終末を見据えつつ、つまり、主イエスの再臨の時に、御前に立つ時のことを思いつつ歩んだからだと言えるでしょう。現実の、目に見える人間の交わりである教会には、いろいろな欠けがあり、人間の罪があり、問題があります。サタンの妨げは、教会においてこそ最も激しく働いているのです。そのような中で、目に見える現実の教会の姿のみを見つめていたら、教会の人々のことを、「あなたがたこそ私たちの希望、喜び、誇るべき冠、誉れである」と言うことはできないでしょう。それは教会の人々が伝道者を見る場合も同じです。伝道者にも、様々な人間的な欠けや弱さ、罪があるのです。また、教会において、兄弟姉妹のことを見つめる時も同じです。教会は何の罪もない聖人の集まりではない、サタンの妨げにいつもさらされている者たちの群れなのだということは、ここに集っている一人一人が自分自身のことを振り返ってみれば明らかです。地上の、目に見える教会はいつもそういうものなのです。私たちに求められているのは、終末を見据える信仰の目です。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」という視点です。そこにおいては、私たちが今持っている様々な弱さ、欠け、罪がすべてぬぐい去られて、私たちの救いが完成されるのです。私たちの、欠けの多い、罪に満ちた、サタンの妨げにいつもさらされている交わりもまたそこで、完成されるのです。そのことを信じ、待ち望みつつ、教会を、兄弟姉妹を見つめていく、そこにおいてこそ私たちは、お互いにお互いを、希望、喜び、誉れとするような、すばらしい関係を築き上げていくことができるのです。パウロとテサロニケ教会の人々との関係を私たちの間にも築いていくために必要なことは、世の終わりの、キリストの再臨における救いの完成を見つめることなのです。

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