「聖霊を受けなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第2章7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第20章19-23節
・ 讃美歌:
ユダヤ人を恐れていた弟子たち
本日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書第20章19節以下の冒頭に「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とあります。「その日」とは、主イエス・キリストが復活なさった、イースターの日です。その日は「週の初めの日」つまり日曜日でした。日曜日の朝、主イエスは復活なさったのです。そのことを覚えて、教会は日曜日に礼拝をしているのです。
本日の箇所はそのイースターの日の夕方のことです。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。彼ら弟子たちは既にマグダラのマリアから、主イエスの復活を告げられていました。直前の18節に「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」とありました。マリアは復活して生きておられる主イエスと出会ったことを弟子たちに告げたのです。「主から言われたことを伝えた」とは、17節で主イエスが弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、彼らのところへ行って「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と伝えるように言われた、ということです。このように弟子たちはマリアから既に主イエスの復活を告げられ、主イエスからのお言葉を聞いていたのです。それにもかかわらず、彼らはこの夕方、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」いました。恐れて部屋の中に閉じ籠っていたのです。
彼らはユダヤ人を恐れていました。主イエスがユダヤ人たちによって捕えられ、ローマ総督ピラトに引き渡されて十字架につけられて殺されてしまった、それと同じことが自分たちにも起ることを恐れていたのでしょう。マグダラのマリアが主イエスの復活を告げ、またシモン・ペトロともう一人の弟子は主イエスの墓に行って遺体がないことを確認しましたが、それだけでは、主イエスが復活して生きておられることを信じることはできず、ユダヤ人を恐れる思いから抜け出すことはできなかったのです。
信仰を言い表すことができない私たち
彼らがユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じ籠っていたということには、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わりごろの教会の様子が反映されています。ヨハネ福音書が書かれた教会は、ユダヤ人たちの迫害の中にありました。イエスをキリストつまり救い主と信じる信仰を言い表すとユダヤ人の共同体から追放される、ということが起っていたのです。その迫害のために、人々の前で信仰を言い表すことができず、人目を避けて集まり、密かに信じていた人が沢山いました。「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」という弟子たちの姿は、そのような当時の信仰者たちの姿を表しているのです。そしてそれは私たちにも通じることだと言えるのではないでしょうか。私たちは今、主イエス・キリストを信じる信仰によって迫害を受けることはほとんどありません。しかし私たちも、自分は主イエス・キリストを信じて生きている、と人々の前ではっきり言うことがなかなか出来ません。そういうことを言うと変な人と思われてしまうとか、そういう話題は歓迎されず、その場の空気を損なってしまう、というプレッシャーを感じて、なかなか自分の信仰をストレートに表現することができないのです。そのために私たちの信仰はとかく、教会の仲間たちの間だけに閉じ籠って、他の人から隠れているようなものになりがちです。戸を開いて外に出て、人々に信仰を伝えていくことがなかなかできないのです。この弟子たちの姿はそういう私たちの姿と重なり合うのです。
しかしそこでさらに見つめるべきことは、弟子たちは「恐れ」に捕えられ、そのために閉じ籠っていたということです。恐れていたということは、彼らは神を信じ、信頼することができなくなっていたのです。つまり弟子たちは、自分の持っている信仰を人の前で言い表すことができなかったと言うよりも、むしろ信仰を失い、そのために恐れに捕えられていたのです。私たちが人前で信仰を言い表すことができない、という時に起っているのも実はこういうことではないでしょうか。神を信じてはいるが、その信仰を言い表すことができないのではなくて、主イエスを、父なる神を本当に信頼することが出来ていない。つまり神を本当に信じてはいないのです。恐れて閉じ籠っているというのは、実は私たちが神を信じて生きることができなくなっている、ということなのです。
恐れによって心の戸を閉ざしてしまう私たち
信仰に生きるとは、神を信頼して生きることです。この世界を創り、私たちに命を与えて下さった神が、恵みのみ心によってこの世界と私たちの人生を導いて下さっていることを信じて、その神に信頼して生きることです。その信仰がなければ私たちは恐れに捕えられます。この世には私たち人間の力の及ばない恐しい現実が満ちています。新型コロナウイルスもその一つです。自分の力、人間の力によってそれらに立ち向かおうとすれば、私たちは必ず恐れに捕えられます。そうならないとしたらそれはものすごく幸運だったか、あるいはものすごく能天気で現実が何も見えていないということです。そして恐れに捕えられる時私たちは、自分自身の中に閉じ籠ろうとします。心の戸を閉し、鍵をかけて誰も入って来れないようにし、自分もそこから出て行こうとしない。そうやって必死に自分を守ろうとするのです。神を信じ、信頼することができずに、恐れに捕えられ、そのために自分の心の戸を閉ざし、鍵をかけて閉じ籠っている、それがこの弟子たちの姿であり、それはそのまま私たちの姿でもあるのです。
復活して生きておられる主イエスとの出会い
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。戸に鍵をかけて閉じ籠っている弟子たちのまん中に、復活して生きておられる主イエス・キリストが来られたのです。主イエスの復活とはこういう出来事です。先週も申しましたが、およそ二千年前にイエスという人が死んで復活した、という出来事が本当にあったのだと思う、ということが復活を信じることではありません。復活して生きておられる主イエスが、私たちの固く閉ざしている心の部屋の真ん中に入って来て、「あなたに平和があるように」と語りかけて下さる、その主イエスと出会うことこそが、主イエスの復活を信じることなのです。
あなたがたに平和があるように
その主イエスとの出会いは、幽霊を見るような恐しいこととは違います。主イエスは「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。平和をもたらして下さるのです。その平和とは、単に争いや戦いがない、というのではなくて、神の祝福が満ちているということです。復活した主イエスは、私たちを神の祝福で満たして下さるのです。弟子たちはその祝福を受けるのに相応しい者ではありませんでした。彼らは主イエスが捕えられた時、逃げ去ってしまったのです。一番弟子であるペトロは三度、主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのです。弟子として最後まで主イエスに従い通すことができた人は一人もいなかった。そしてこの時も、彼らは主イエスの復活の知らせを受けながら、信じることができず、恐れて部屋に閉じ籠っているのです。彼らは不信仰と恐れの中にいるのであって、神の祝福を受ける相応しさなど彼らの内には何一つないのです。その彼らに主イエスは「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、「手とわき腹とをお見せになった」とあります。主イエスの手には十字架に釘打たれた跡があり、わき腹には槍で突かれた傷があるのです。主イエスがそれをお見せになったのは、十字架につけられて殺された主イエスが確かに復活した、ということを示すためでもありますが、もっと大事な意味がそこにはあります。主イエスの手とわき腹の傷は、彼ら弟子たちが主イエスを見捨て、従うことができなかった中で、主イエスが十字架につけられて殺された、その彼らの弱さと不信仰の罪の結果です。それを見せられることによって弟子たちは、自分たちの弱さと不信仰の現実を否応なく見つめさせられるのです。しかしその傷を見せつつ主イエスは「あなたがたに平和があるように」と言われました。それは主イエスが、彼らの弱さと不信仰、罪を乗り越えて、彼らに神の祝福を与えて下さるということです。主イエスを復活させて下さった父なる神が、彼らの弱さと不信仰の罪を全て赦して下さって、彼らを祝福し、新しく生かして下さる、その神からの赦しと祝福と新しい命を彼らに与えるために、復活した主イエスが今彼らの真ん中に立って下さっているのです。手とわき腹をお見せになった主イエスは、彼らの罪や弱さをなかったことにしたり、見て見ぬふりはなさいません。それをしっかり示しつつ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、彼らの罪を赦し、祝福を与え、新しく生かして下さるのです。20節の後半に「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあるのは、「イエスさまが生き返った」と喜んだというのではなくて、復活した主イエスによって自分たちの罪を赦され、祝福と新しい命を与えられた、その喜びで満たされたということなのです。
私たちのところに来て下さる主イエス
復活して生きておられる主イエスは、神に信頼することができない不信仰の中で恐れに捕えられ、そのために戸を閉ざし、鍵をかけて閉じ籠っている私たちの心の真ん中に来て下さいます。そして「あなたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。その主イエスによって私たちは、自分の罪が赦されたこと、神に背いている罪人である自分を神がなお愛して下さっていること、そして全く相応しくない自分に祝福を与え、新しく生かして下さることを示されるのです。そして私たちも、主を見て喜ぶのです。この喜びに生きることこそが、主イエス・キリストを信じる信仰です。この信仰は、私たちが努力して何かを成し遂げ、立派な人になることによって得られるものではありません。罪人である自分のところに主イエスが来て下さることによって、この信仰は与えられるのです。恐れによって戸を閉ざしている私たちの心の真ん中に主イエスが来て下さることによってそれが起るのです。私たちはそのことを待つしかありません。しかし先週の箇所において聞いたように、復活して生きておられる主イエスは、既に私たちの背後から語りかけて下さっています。その語りかけを聞いて主イエスの方へと向きを変える時に、このような出会いが与えられるのです。
わたしもあなたがたを遣わす
21節には「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」とあります。復活して生きておられる主イエスは、私たちに罪の赦しを与え、神の祝福で満たし、その平和の内に、私たちをお遣わしになるのです。どこに遣わされるのか。父なる神が私たちのもとに独り子主イエスを遣わして、私たちを救って下さったように、私たちも人々のもとへと遣わされ、主イエスによる罪の赦しと、神の祝福の内に新しく生かされる救いの喜びを証しし、伝えていくのです。弟子たちも私たちも、主イエスによって平和、祝福を与えられることによってこそ、固く戸を閉ざしている心の扉を開いて、外へ出て行くことができます。私たちが心の戸を閉ざして閉じ籠ってしまうのは、恐れや不安の中で自分を守るためです。そこから外へ出て行くことは、私たちが勇気を振り絞って頑張ることでできるものではありません。他の人から「戸を開けて出ておいで」と言われても、それで出て行けるわけでもありません。固く閉ざした心の真ん中に、復活して生きておられる主イエス・キリストが来て下さり、「あなたに平和があるように」と語りかけて下さることによってこそ、それができるようになるのです。その主イエスとの出会いによって、神が私たちの罪を赦し、祝福の内に新しく生かして下さっている恵みを実感することができた時に、私たちは安心して心の戸を開き、他の人々のもとへと赴き、積極的に語りかけ、主イエスによる救いを証ししていくことができるようになるのです。
聖霊を受けなさい
22節には「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。主イエスが弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を与えて下さったことによって、彼らは新しく生き始めたのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記2章7節には、土の塵で形づくられた人に神が命の息を吹き入れて下さったことによって、人は生きる者となったとあります。それと同じことが新たにここで起っているのです。復活なさった主イエスが「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけて下さったことによって、弟子たちは新しく生き始めました。私たちも、主イエスが与えて下さる聖霊を受けることによって、罪を赦され、神の祝福を受けて新しく生きることができるのです。
聖霊を与えられた弟子たちは、閉じ籠っていた部屋の戸を開き、主イエスの十字架と復活による救いを宣べ伝え始めました。その彼らの伝道によって教会が生まれたのです。つまりここに語られているのは、使徒言行録第2章のペンテコステ、聖霊降臨日の出来事と同じことです。使徒言行録においては、復活した主イエスは40日にわたって弟子たちに現れ、そして天に昇り、その10日後のペンテコステに、父なる神と主イエスのもとから聖霊が弟子たちに降り、伝道が開始され、教会が誕生したのです。つまり主イエスの復活から聖霊が降ったことまでには五十日の時の経過があるわけですが、ヨハネ福音書は、主の復活の日、イースターの日の夕方に、主イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃり、彼らを派遣なさったと語っています。ヨハネは、復活して生きておられる主イエスとの出会いにおいて聖霊が与えられ、新しく生かされる、ということを語ろうとしているのです。
私たちは今、新型コロナウイルスへによって、文字通り部屋の中に閉じ籠るような生活を強いられています。ウイルスへの恐れに捕えられて、心の戸も閉ざしてしまい、人を愛し、人と関わることが失われてしまうようなことも起りがちです。しかし復活して生きておられる主イエスは、私たちの閉ざされた心の真ん中に来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、聖霊によって新しく生かして下さるのです。この礼拝においても、主イエスは私たちの真ん中に立って語りかけて下さっています。この礼拝の音声を自宅で聞いている人のところにも、この説教の原稿を読んでいる人のところにも、主イエスは来て下さっているのです。その主イエスが息を吹きかけて、聖霊を与えて下さることによって、私たちもこの閉塞状況から解放されて、新しく生かされていく。そのことを信じ、求めていきたいのです。
罪の赦しという救いのために
最後の23節には「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とあります。主イエスによって聖霊を与えられ、遣わされた者は、人の罪を赦したり、赦さなかったりすることができる、というこのお言葉に私たちは疑問を感じます。私が自分の判断で、この人の罪を赦すとか、この人の罪は赦さないとか、そんなことを決めてしまうことができるのだろうか、そんなことがあってよいのだろうか、と思うのです。勿論、私たちに人の罪を赦したり赦さなかったりする権限があるわけではありません。罪を赦すことができるのは神のみであって、神が独り子主イエス・キリストの十字架の死によって罪人を赦して下さるのです。ですからこのお言葉は、私たちが自分の勝手な裁量で人の罪を赦したり赦さなかったりすることができるようになる、ということではありません。主イエスがここで示そうとしておられるのは、私たちが聖霊によって新しく生かされ、人々のもとへと遣わされるのは、罪の赦しという救いがそこに起るためだ、ということです。手とわき腹の傷を示しつつ「あなたがたに平和があるように」と告げて下さった主イエスによって私たちは、自分の罪を赦されて新しく生かされるという救いを与えられています。その救いを人々に証しし、伝えるために私たちは遣わされるのです。私たちが遣わされて人々に証しするのは、主イエスの十字架と復活によって、あなたの罪も赦されている、あなたも聖霊を受けて、罪を赦され、神の祝福の内に新しく生きていくことができる、という福音です。それが告げられる時そこには、主イエスを信じて罪を赦され、救いにあずかる人が現れます。私たちが説得力のある仕方で上手に語ったからでは全くなく、聖霊がその人に働いて下さって、信仰が与えられ、罪の赦しという救いの出来事が起るのです。しかしそれが起らないこともあります。私たちがどれだけ熱心に語っても、信仰が与えられず、主イエスによる罪の赦しが起らない、ということもあるのです。つまり私たちが人々のもとへと遣わされて、ひたすら主イエスによる罪の赦しの福音を語る時に、人々の中に、罪を赦されて神の祝福の内に新しく生き始めるという救いも起るし、罪が赦されないまま残るということも起るのです。それをお決めになるのは聖霊なる神です。私たちも、聖霊のお働きによって、私たちのところに遣わされた人の言葉を受け入れて、主イエスを信じ、罪を赦されて新しく生き始めたのです。今度は私たちが、人々のところに遣わされていく番です。私たちの証しがどんなに拙いものであっても、聖霊が働いて下さるなら、主イエス・キリストによる救いのみ業がそこに起り、罪を赦されて新しく生き始める者たちが増し加えられていくのです。