「起きて祈っていなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第127編1-2節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章39-46節
・ 讃美歌:229、159、469
アドベント
本日からアドベント、待降節に入ります。12月25日の前の四回の主日つまり日曜日がアドベント第一から第四の主日です。その四回の主日を、主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスに備える時として歩むのです。いつもは、アドベントの第四の主日にクリスマス礼拝が行われ、その後24日に讃美夕礼拝を行う、ということになるのですが、本年は25日が日曜日ですので、その日にクリスマスの礼拝を行い、前の日に讃美夕礼拝を行うことになります。そしてアドベントは第一から第四までアドベントの礼拝として守ることができるわけです。そのアドベントの礼拝において、聖書のどこの箇所からみ言葉に聞こうかと考えたのですが、結局、今読み進めているルカによる福音書の続きをそのまま読み、クリスマスの礼拝においてのみ別の箇所を読むことにしました。今私たちは、ルカによる福音書の第22章を読んでいます。ここは、主イエスが十字架につけられる前の晩の話です。前回読んだ38節までのところに、いわゆる最後の晩餐のことが語られていました。これからアドベントの期間に読んでいくのは、最後の晩餐を終えた主イエスがオリーブ山のいつもの場所で祈られたこと、そこに、イスカリオテのユダに手引きされた群衆が来て主イエスを逮捕したこと、大祭司の家に連行され、ユダヤ人の最高法院の裁判を受けたこと、その間に、ペトロが三度、主イエスのことを「知らない」と言ったことなどです。主イエスが捕えられ、苦しみを受け、十字架の死刑が確定していく、その場面をこのアドベントの期間に読んでいくのです。主イエスの誕生を喜び祝うクリスマスに備える時期にそんな箇所を読むのは相応しくない、と思う方もいるかもしれません。しかしむしろ、ここを読み進めることによって、クリスマスにお生まれになった主イエスが何のためにこの世に来られたのかが明確になると言うことができると思います。クリスマスは喜びの時ですが、それは浮かれ騒ぐお祭りの喜びではありません。クリスマスの喜び、祝いは、主イエスの十字架の苦しみと死とによって裏打ちされているのです。それゆえにこそ私たちは本当に、心から、クリスマスを喜び祝うことができるのです。特に今年、私たちはクリスマスを特別な思いで迎えます。東日本大震災におけるすさまじい津波の被害、また今後何十年にわたって影響を受けざるを得ない原発事故の体験の中で、クリスマスを迎えるのです。呑気にクリスマスなど祝っている時ではない、というのが世間の感覚でしょう。しかし私たちはこの状況の中でも、いやこの状況の中だからこそ、クリスマスを祝うのです。それは、クリスマスがキリストの十字架の苦しみと死と深く結び合っているからです。クリスマスの祝いは決して「呑気な」ものではありません。そこに与えられる喜びは、主イエスの十字架の苦しみと死によって支えられているものであり、それゆえに、苦しみ悲しみの中を歩んでいる私たちを支えるものなのです。主イエスのご降誕を覚えつつ22章を読み進めていくことによってこそ、クリスマスの本当の恵み、喜びを味わうことができると思うのです。
いつもの場所で
さて、最後の晩餐を終えた主イエスは、いつもようにオリーブ山に行かれた、と39節にあります。「いつもように」というのは、21章37節に「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とあることを受けています。40節に「いつもの場所に来ると」とあるのは、オリーブ山の中の、いつも弟子たちと共に夜を過ごしていた場所に来た、ということです。弟子の一人であるユダはその「いつもの場所」をよく知っていました。だからそこに主イエスを捕える人々を連れて来ることができるわけです。ユダが裏切ることを知っておられた主イエスですから、逮捕を逃れようとするなら、「いつもの場所」とは別の所に身を隠せばよいわけです。しかし主イエスは敢えて「いつもの場所」に行かれた、捕えられることを避けようとはせず、むしろそれを静かに待っている主イエスのお姿がここに示されています。
誘惑に陥らないように祈りなさい
ご自分を捕える者たちが現れるのを待つ間に主イエスがこの「いつもの場所」でなさったこと、それは祈ることでした。そしてその祈りに際して主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」とおっしゃったのです。ここはマタイ、マルコ福音書では「ゲツセマネの祈り」と呼ばれている場面です。「いつもの場所」はゲツセマネという所だったとこれらの福音書は語っていますが、ルカはその名を語っていません。そのことだけでなく、ルカのここでの語り方はマタイ、マルコとは大きく異なっています。マタイ、マルコでは、主イエスは「悲しみもだえ始めた」あるいは「ひどく恐れてもだえ始め」たと語られており、その悲しみの中で、「共に目を覚まして祈っていてほしい」と弟子たちに願われたのです。傍にいて共に祈って自分を支えて欲しい、ということです。十字架の死を前にして苦しみ、弱り、弟子たちの支えを求める主イエスの人間的なお姿が語られていると言えます。しかしルカはそういうお姿を語ってはいません。ルカも44節で「イエスは苦しみもだえ」と語っていますが、それは主イエスがお一人で祈っておられる中でのことです。だから弟子たちの支えを求める、ということにはなっていないのです。つまり「誘惑に陥らないように祈りなさい」という主イエスのお言葉は、自分を支えてほしいと願っているのではなくて、弟子たちを諭しておられるのです。そこに、31節とのつながりを見ることができます。31節で主イエスはペトロに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とおっしゃいました。つまり弟子たちはこれからサタンのふるいにかけられようとしている、主イエスが捕えられ、十字架につけられていく中で、彼らの信仰が試され、挫折の危機に瀕していく、ということを見つめておられるのです。その試練の中で彼らに必要なことは、「誘惑に陥らないように祈る」ことなのです。命の危機にさらされるような試練の中で、主イエスに従う信仰が試され、そして主イエスがペトロに対して予告なさったように、イエスのことを「知らない」と言ってしまう誘惑にさらされるのです。そういう誘惑に陥らないためには、祈らなければなりません。祈って、神様との交わりを保ち続けることができるならば、誘惑に打ち勝って信仰を守り抜くことができるのです。主イエスはそのことを弟子たちに教え、誘惑と戦って祈るようにとお命じになったのです。
眠り込んでしまった弟子たち
そのように主イエスに命じられた弟子たちはどうしたでしょうか。45、46節がそれを語っています。「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい』」。弟子たちは結局祈っていることができず、眠ってしまったのです。マタイ、マルコ福音書ではこのことは、彼らが弱さのゆえに眠気に負け、苦しみの中で祈っている主イエスを共に祈ることでお支えできなかった、ということとして描かれています。しかしルカにおいては、彼らが眠ってしまったのは「悲しみの果てに」だったと語られています。彼らは何を悲しんだのでしょうか。主イエスがもうじき逮捕され、十字架につけられることを彼らが分かっていたとは思えません。何かしら良くないことが起りそうだ、という予感はあったかもしれません。しかしそういうことで主イエスのために悲しんだと言うよりも、これは、彼ら自身がサタンのふるいにかけられ、信仰の試練に直面する、その苦しみを見つめて語られているのではないでしょうか。つまりそれは彼らのみでなく、私たちも体験する悲しみです。信仰が試され、主イエスのことを「知らない」と言ってしまいそうになるような誘惑を私たちも体験します。その試練の悲しみの中で、私たちも眠り込んでしまう、祈っていることができなくなってしまうのです。試練の苦しみ、悲しみの中で、祈りを失い、信仰の挫折に陥っていく、つまりサタンによって小麦のようにふるいにかけられ、主イエスを知らないと言ってしまうようになる、そういう信仰者の挫折の姿が、この眠り込んでしまった弟子たちの姿に象徴的に表されているのです。そのことは、マタイ、マルコにおいては彼らが眠り込んでしまったことが三度繰り返して語られているのに対してルカにおいては一度のみであること、またマタイ、マルコではペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子のみの話となっているのに対して、ルカでは弟子たち全員が眠り込んでしまったと書かれていることからも分かります。マタイ、マルコの方がその場面の描写としての臨場感がありますが、ルカの記述には、具体性をそぎ落とすことによって象徴的にあることを示そうとしている、という意図が感じられるのです。つまり悲しみの果てに眠り込んでしまった弟子たちの姿は、試練の中で誘惑に陥り、祈りを失ってしまう私たちの姿なのです。
起きて祈っているとは
主イエスの教え、命令にもかかわらず、誘惑に陥って眠り込み、祈りを失っている弟子たちから石を投げて届くほどの所で、主イエスが祈っておられます。主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。「この杯をわたしから取りのけてください」というのは、今目前に迫っている十字架の苦しみと死を免れさせてください、ということです。主イエスがそれを前にして苦しみもだえておられる、というマタイ、マルコの文脈ですとそうなります。そしてその苦しみの中で主イエスは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られた、自分の願いではなく、父なる神様の御心に従って歩むことをこそ求め、その祈りの中で十字架への道を歩んでいかれた、ということになります。しかし今見てきたルカの文脈においては、主イエスのこの祈りは、ご自分の歩みのための祈りと言うよりも、誘惑の中で眠り込み、祈りを失ってしまう弟子たちに、そして私たちに、どのように祈るべきかを教えて下さっており、また私たちの先頭に立ってそのように祈って下さっている、そういう祈りとして捉えることができるのではないでしょうか。サタンのふるいにかけられるような試練の中で私たちは、神様に「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈り願います。試練、苦しみを取り除いてほしい、こんな試練にあわせないでほしい、と思うのです。それが私たちの正直な思いです。しかし、そのように試練から逃げ出すことを願い求めているだけでは、結局それに捕えられ、打ち負かされてしまうのです。祈りを失い、つまり信仰を失ってしまうのです。大事なことは、その試練の中で、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ることです。それこそが、起きて祈っていることなのです。試練や苦しみ悲しみを取り除いてください、とだけ祈っているなら、そのうちにくたびれてしまいます。悲しみの果てに眠り込んでしまうのです。信仰において眠り込まず、目覚めているというのは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っていることです。それこそが、主なる神様を信じ、信頼し、依り頼み、神様との交わりに生きることなのです。主イエスは、十字架の苦しみと死を前にして、そのような祈りを、私たちの先頭に立って、祈って下さったのです。それによって、サタンのふるいにかけられていく私たちの歩むべき道を、誘惑と戦っていく手立てを、教えて下さっているのです。
天使の力づけ
主イエスのこの祈りに、43、44節が続いています。ここは括弧に入れられています。それは、この部分を入れるかどうかについて議論がある、という印です。聖書今私たちが読んでいる一つの書物としてずっと伝えられてきたのではなくて、手書きの写本の、多くの場合断片が残されているものを比較検討して、元の形にできるだけ近いものを再現しようとする学問によって整えられています。その写本の研究の成果においては、この部分がないものの方が有力なのです。しかし、教父と呼ばれる古代の教会の指導者たちの多くが、これが入った形でのルカ福音書を伝えています。それゆえにこれを入れることにはかなりの根拠があるのです。内容的にも、この部分は今見てきたルカの文脈によく合うと思います。つまり、主イエスが、弟子たちのそして私たちの先頭に立ってあの祈りをして下さった、「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」のです。なぜここに天使が現れて力づけるのか、それは苦しみもだえている主イエスを支えるためと言うよりも、主イエスのこのような祈りこそ、神様が喜んで下さり、支えて下さる、試練の中で私たちが祈るべき祈りであることを示すためではないでしょうか。つまり私たちが、苦しみ悲しみによる試練、誘惑の中で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈る時、神様は私たちのところにも天使を遣わして、力づけ、支えて下さるのです。
主イエスの祈りの戦い
その後に、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とあるのも、私たちの信仰における祈りの戦いを意識して語られているのだと思います。先ほど申しましたように、マタイ、マルコでは、主イエスは先ず苦しみもだえ始め、そして弟子たちに祈って支えてくれるように願い、その苦しみの中で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたのです。しかしルカにおいては、この祈りがなされた後に「苦しみもだえ」とあります。しかも、天使の力づけが与えられた後にそれが語られているのです。それは、ルカにおいては主イエスが「苦しみもだえ」たことの意味が違うことを表しています。主イエスは、迫り来る十字架の苦しみと死のゆえに苦しみもだえておられるのではなくて、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りを、苦しみもだえつつ祈っておられるのです。この祈りを祈りつつ歩むことは、決して楽なことではありません。苦しみ悲しみ、試練の中で、それを取り除いてほしい、という切なる願いを抱きつつ、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈ることは、厳しい信仰の戦いなしにはできません。私たちはまさに苦しみもだえつつ、この祈りを祈っていくのです。「汗が血の滴るように地面に落ちた」というのも、その厳しい祈りの戦いの様子を描いています。主イエスがそのように、この祈りを祈りつつ歩むための厳しい信仰の戦いを、私たちの先頭に立って戦っていて下さる、そういうお姿をルカはここに描いているのです。私たちは、この主イエスに従って歩むのです。試練にあい、苦しみ悲しみの中で、主イエスを知らないと言ってしまいそうになる誘惑にさらされつつ、主イエスが苦しみもだえながら祈って下さった、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りを、主イエスのこの祈りに支えられ導かれて、私たちも祈っていくのです。
主の祈り
私たちは毎日、この祈りを祈りつつ歩んでいます。本日のこの礼拝においても祈ります。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」というのがその祈りです。神様あなたのみ心こそが、地において、つまり私たちにおいて、行われますように。「主の祈り」において私たちはそのように祈っているのです。ルカによる福音書において、主の祈りが教えられたのは第11章でした。そこには、「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」は語られていましたが、その次の「御心が成りますように」という祈りはありませんでした。ルカにおける「主の祈り」には、「御心」に関する祈りが抜けていたのです。しかしその祈りは、本日の箇所において、主イエス御自身がお手本を示して下さることによって与えられています。主イエスは、苦しみもだえつつ、いよいよ切に、汗を血のように滴らせながら、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈って下さったことによって、私たちに、「あなたがたも試練の中で、試練の中でこそ、『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』と祈りなさい」と教えて下さったのです。それこそが、信仰において目を覚ましていることです。試練の中で主の祈りを祈っていく私たちの信仰の戦いを、神様は天使によって力づけ、支えて下さるのです。
主イエスの復活の命によって
45節には、先ほど読んだように、「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。主イエスは、苦しみもだえつつ、祈りの戦いを戦い抜かれたのです。しかし「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられていた弟子たちは、試練の悲しみの中でその戦いに負けて眠り込んでしまいました。それは弟子たちだけでなく、私たちの姿です。私たちも、試練の中で眠り込み、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを失い、信仰の挫折に陥っていくのです。その私たちのところに、主イエスは来られます。そして「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」とおっしゃるのです。「イエスが祈り終わって立ち上がり」とある、その「立ち上がる」という言葉は、「復活する」ということをも意味する言葉です。祈りの戦いを戦い抜き、勝利した主イエスは、十字架にかかって死に、そして復活なさったのです。父なる神様の御心こそが成るようにという祈りの戦いに勝利し復活なさった主イエスが、その戦いに負け、眠り込んでしまっている私たちに、語りかけて下さるのです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。その「起きて」というのも、「立ち上がる」つまり「復活する」と同じ言葉です。このお言葉によって主イエスは私たちを、責めておられるのではありません。むしろ、「試練の中で眠り込んでしまうあなたがたのために、私が祈りの戦いを戦い抜き、十字架の死によってあなたがたの罪を全て赦し、そして死者の中から復活した。その復活の命をもって今私はあなたがたと共にいる。だからあなたがたも、私の復活の命によって、起き上がることができる、立ち上がることができる、試練の中で、誘惑の中で、『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』と祈りつつ歩むことができるのだ。なぜ眠っているのか。私の復活の命を受けて目を覚まして、祈り続けなさい」。主イエスはそのように私たちに語りかけて下さっているのです。この主イエスの語りかけを受け、それに応えて祈りつつ、このアドベントの時を歩みたいと思います。アドベントには四本の蝋燭を立て、第一週には一本、第二週には二本と、火を灯す数を増やしつつ歩みます。それは、私たちが目を覚まして、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつつクリスマスに備えていくためです。主イエス・キリストが、その祈りの戦いの先頭に立って導いて下さっているのです。