主日礼拝

まさかわたしのことでは

「まさかわたしのことでは」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記下第12章1-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章10-21節 
・ 讃美歌:137(1-3、6)、295、539、458

ユダの裏切り
 マルコによる福音書の14章に入り、主イエス・キリストの受難、十字架の死への歩みを読み進めています。主イエスの受難において大きな役割を果たしたのが、イスカリオテのユダです。このユダが主イエスを裏切り、金をもらって祭司長たちに売ったのです。そのために、先週も申しましたが、祭司長たちの、主イエスを殺そうとする計画は彼らの思いよりも早く実現したのでした。本日の箇所の10、11節には、そのユダの裏切りのことが語れています。ここを読んで分かるのは、ユダは自分から祭司長たちのところへ出かけて行って、イエスを引き渡すことを申し出た、ということです。祭司長たちが、これこれの金をやるから我々にイエスを引き渡してくれないか、と彼に持ちかけたのではありません。ユダの申し出を聞いて祭司長たちは喜び、金を与える約束をしたのです。つまりユダの裏切りは、金の誘惑に負けてつい…ということではなくて、もっと積極的な、はっきりとした意志によってなされたことなのです。
 このユダの裏切りの話は、先週読んだ3節以下の話と非常に対照的です。3節以下には、一人の女性が、三百デナリオン以上もするナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたという、主イエスに対する惜しみない愛と献身の行為が語られていました。この女性の姿と、主イエスを裏切り、引き渡そうとするユダの姿の落差はいったいどこから来るのでしょうか。しかもこのユダは10節に「十二人の一人」と言われているように、主イエスが選び出し、側近くに置き、また神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出すために派遣なさった十二人の弟子の一人なのです。最も主イエスの近くにおり、行動を共にしてきた弟子が、このように裏切者となったのです。それはまことに不思議なことであるし、また見方を変えれば、ユダがそのような者であることを主イエスは見抜けなかったのか、主イエスの弟子選びは失敗だったのではないか、とも思わせられる出来事です。

ユダは何故裏切ったのか
 ユダは何故主イエスを裏切ったのでしょうか。ユダの心の動きを聖書は全く語っていません。だから私たちはいろいろと想像してみるのです。金に眼がくらんだのではなかったことは先程申した通りです。金を与える約束は、彼が裏切りを申し出た後になされているのです。それではユダは、主イエスに対して何か恨みを抱いていたのでしょうか。そうかもしれません。そしてそれは先週のあのナルドの香油の話と関係があるかもしれません。あの女性が香油を主イエスの頭に注いだ時、周りにいた人々はそれをとがめました。「何故こんな無駄遣いをするのか。この香油を三百デナリオン以上に売れば、貧しい人たちを助けることができたのに」と言った人がいたのです。マルコ福音書は、そう言ったのは「そこにいた人の何人か」だと言っていますが、マタイ福音書ではそれは「弟子たち」となっており、ヨハネ福音書ではそれはイスカリオテのユダが言ったとされています。そうであるならばここに、ユダと主イエスの思いのすれ違いがあったことになります。ユダはこの香油を売って貧しい人を助けるために使うべきだと思っていたのに対して、主イエスはこの女性の献身の行為を喜んでお受けになったのです。それでユダは、主イエスが自分の思いを受け入れてくれない、自分よりもこの女の方を認め、評価している、というひがみの思いを持ったのかもしれません。先週読みましたように主イエスは「この人を困らせないでほしい」とおっしゃったのであって、ユダの(もしこれがユダだったと仮定してですが)思いを全面的に否定したわけではないのですが、しかし自分の意見が入れられなかったり反対されると、人格を全面的に否定されてしまったように思い込んで恨みを抱く、ということは私たちの間でもよくあります。ユダもそのようにして主イエスを恨んでしまったのかもしれません。あるいは、これはよく言われることですが、ユダは主イエスを恨んで裏切ったのではない、彼は主イエスがユダヤ人の先頭に立ってローマの支配を打ち破り、神の国イスラエルを再興することを期待していたのだけれども、主イエスが一向に立ち上がろうとなさらないので、捕えられる、という切羽詰まった状況に置かれれば主イエスもいよいよ腹を決めて決起なさるだろうと思い、主イエスを引き渡すことによってそういう状況を作り出したのだとも言われます。そう考えれば、これはマルコではなくて他の福音書に語られていることですが、主イエスの十字架の死刑が確定したのを見てユダが後悔し、自殺した、ということともつじつまが合うとも言えます。このように、ユダの裏切りの理由を私たちはいろいろに想像するわけですが、聖書はそういうことを全く語っていない、という事実は大事です。つまり福音書を書いた人々は、ユダが何故裏切ったのか、には関心を寄せていないのです。それではマルコはここで何を語ろうとしているのでしょうか。それは一つには、「十二人の一人」が、しかも自らの意志で主イエスを裏切った、という事実です。そしてもう一つは、主イエスがそのことを既に予告しておられた、ということです。主イエスはこれまでに三度に亘ってご自分の受難を予告して来られました。その第二回目と第三回目、9章31節と10章33節には、ご自分が「引き渡される」ことが語られていました。「捕えられる」ではなくて「引き渡される」と主イエスは語っておられたのです。今ユダがしようとしているのはまさにその「イエスを引き渡す」ことです。つまりユダは、主イエスが予告なさったことをその通りにしようとしているのです。ユダは自分の意志でこれをしているわけですが、実はその全てのことが神様のご計画の中にあり、主イエスはその全てをご存知なのだ、ということがここで見つめられているのです。そのことは12節以下のいわゆる最後の晩餐の記事においても語られていきます。

過越の食事の準備
 さて12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、これは正確な言い方ではありません。除酵祭と過越祭については先週お話ししましたが、除酵祭は過越祭の翌日から始まるのです。ここに語られているのは「過越の食事」ですから、これは除酵祭ではなくて過越祭のことです。また、その「第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、過越祭は一日のみであって、過越の小羊を屠るのはその前の日、準備の日です。その日中に過越の小羊が屠られます。ユダヤの暦では日没から新しい一日が始まります。日没になって過越祭当日になると、その小羊の肉を食べる過越の食事がなされるのです。マルコ福音書と、それをもとにして書かれたマタイ、ルカ福音書では、主イエスと弟子たちのいわゆる最後の晩餐がこの過越の食事だったとされています。ヨハネ福音書だけはそれとは違う語り方をしているのですが、それはここでは置いておきます。過越の食事を食べることが過越祭の中心です。それは単にご馳走を食べるというのではなくて、決められた儀式に基づく食事でした。準備すべき食物も決められていたし、それらを食べる順序も決められていたのです。そしてそれを食べる間に祈りがなされ、賛美が歌われ、子供の問いに親が答えるという仕方で、イスラエルの民が主なる神様の力強いみ手によって、奴隷とされていたエジプトから解放された、その救いの出来事が覚えられていったのです。主イエスの当時、この過越の食事をエルサレムの市内でとることが重んじられていました。そのためにこの祭りの時には多くの人々がエルサレムにやって来たのです。エルサレムに家がない人々にとっては、どこにこの食事の場を確保するかは大きな問題でした。12節で弟子たちが主イエスに「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねたことにはそういう背景があるのです。
 この弟子たちの問いに対する主イエスのお答えが13節以下です。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」。これを、主イエスが占い師のようにこれから起ることを予告した、というふうに読む必要はありません。主イエスはこの家の主人との間に前もって打ち合わせをしておられたと考えてよいのです。この家の主人は恐らく主イエスを信じる人だったのでしょう。自分の家の二階の広間を、主イエスのために提供し、献げたのです。「水がめを運んでいる男」とあるのは、使いに出た弟子たちがその人とコンタクトを取るための目印が水がめだったと考えられます。なぜなら、男性が水を運ぶ場合には皮袋を使うのは普通で、水がめを運ぶのは普通は女性だったからです。男性が水がめを運んでいればそれは目印になるのです。そのようにして弟子たちは、主イエスのために部屋を提供してくれる人の家を知り、そこで過越の食事を準備したのです。
 このことが示しているのは、主イエスご自身がこの過越の食事のための手筈を整えておられたということです。弟子たちはその打ち合わせに預かっておらず、ただ指示通りに準備をしたに過ぎなかったのです。つまりこの過越の食事の主人、ホストは主イエスです。弟子たちは主イエスによってこの食事に招かれたのです。そのことは14節の、この家の主人にこう言いなさい、とおっしゃった言葉にも表れています。「先生が『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」。「わたしの部屋」と主イエスは言っておられます。それはこの部屋で行われる過越の食事が主イエスのもの、主イエスが主催するものだということです。

まさかわたしのことでは
 このように、主イエスご自身がこの過越の食事、最後の晩餐を備え、弟子たちを招いて下さったのです。17節に「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」とあります。ここにも「十二人」とあり、そこにはユダが含まれています。既に祭司長たちのところへ行って、「どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」ユダを含んだ十二人がこの食卓に招かれたのです。その席で主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃいました。ユダの裏切りの思いと計画を主イエスはご存知なのです。
 しかし主イエスは何のためにこのようにおっしゃったのでしょうか。裏切ろうとしているユダに「お前の計画は全てお見通しだぞ」と言って思い止まらせるためでしょうか。けれども、主イエスのこのお言葉はそういう効果を発揮してはいません。ユダがこれを聞いてびくっとした、とは書かれていないのです。むしろびくっとしたのは他の弟子たちでした。彼らは心を痛めて「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。我々の中の一人が主イエスを裏切ろうとしている、それはもしかしたらこの私のことかもしれない、と弟子たちは思った、つまり、みんなが自分の中に、裏切りの可能性を見たのです。主イエスを裏切る思いが自分の中にもあることをみんなが感じたのです。主イエスのお言葉は、ユダにではなく、弟子たち全員に、自らの裏切りの思いを意識させる働きをしました。それこそが、主イエスがこのお言葉を語られた理由でしょう。「あなたがたのうちに一人で、わたしと一緒に食事をしている者」というのは、弟子たちの誰にでもあてはまることです。全ての弟子たちが、これは自分のことではないか、と感じるために、主はこのように語られたのです。そしてそれは、「まさかわたしのことでは」と言い始めた弟子たちに主がさらにお語りになった言葉にも貫かれています。20節です。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」。これも、弟子たちの内の誰のことでもあり得ます。つまり主イエスはここで、主イエスを裏切り抹殺しようとする思いが誰の心にもあることを意識させようとしておられるのです。

その男はあなただ
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、ダビデ王が自分の部下ウリヤをわざと戦死させて、その妻バト・シェバを自分の妻にしてしまった、その罪を、預言者ナタンによって指摘されたという箇所です。ナタンは一つの話を語りました。豊かな男が、客人にご馳走するのに自分の羊を殺すことを惜しんで、たった一匹の小羊を娘のように大事にしていた貧しい男からその羊を取り上げてしまった、という話です。ダビデはその話を聞いて激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と言いました。主なる神様はそのようなことを決してお赦しにならない、ということです。その時ナタンはダビデに、「その男はあなただ」と言いました。弱い者、貧しい者から大切な人を奪うという罪を犯しているのは他の誰でもないあなた自身なのだ、と告げたのです。それによってダビデは自らの犯した罪とその大きさに気づかされたのです。主イエスの「あなたがたのうちの一人が」というお言葉は、このナタンの「その男はあなただ」と同じ働きを、弟子たち全員に対してしたと言えるでしょう。私たちも、この主のお言葉を、自分自身に対する言葉として聞き、弟子たちやダビデと同じように自分自身を振り返ってみなければなりません。そうするならば、私たちの思いの中にも必ず、主イエスを裏切り、拒絶し抹殺してしまおうとする思いがあることが見えて来るのです。その思いがどう現れるかは人それぞれです。弱さによって、誘惑に負けて裏切ってしまうこともあるし、主イエスが自分の思いや願いを聞いてくれない、自分の思い通りにならない、ということでひがんで主イエスを恨んでしまうこともあります。あるいはもっと積極的に、主イエスの教え、主イエスを救い主と信じる教会の信仰は間違っている、と言ってそれを拒否することもあるでしょう。私たちが主イエスを裏切り、拒み、抹殺しようとする理由は様々です。だからこそ福音書は、ユダが何故、どのような思いで裏切ったのかを語っていないのです。それは私たち一人一人の問題だからです。つまりユダとは私たち自身なのです。ですから、イスカリオテのユダのことを考える時に私たちは、自分たちの中で誰がユダだろうか、あの人だろうか、などと考えてはならないのです。弟子たちは、あなたがたの一人が裏切ろうとしている、と主イエスに告げられた時、「それはおまえだろう」「いやおまえこそ裏切るのではないか」と互いに言い合ったのではありませんでした。彼らは心を痛めて「まさかわたしのことでは」とそれぞれが言ったのです。その弟子たちの姿を私たちは見倣うべきです。いや、見倣うと言うよりも、主イエスのみ前に本当に立つ時には私たちは、裏切者は誰だ、などという思いは持ち得ないのです。この自分こそ、主イエスを裏切り、主イエスに従うことを拒み、引き渡したイスカリオテのユダと同じだということを認めざるを得ないのです。

生まれなかった方がよかった
 これは単なる謙遜で言えるようなことではありません。21節で主イエスはこうおっしゃいました。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその人は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。人の子とは主イエスのことです。主イエスは聖書に書いてある通りに去っていく。それは、主イエスが引き渡され十字架につけられて殺される、それら全てのことが、聖書に書いてあること、予告されていること、つまり神様のご計画によることだ、ということです。そういう意味で、ユダの裏切りも神様のご意志、ご計画の中にあるのです。そのことを通して、私たち罪人を救って下さる神様のご計画が前進していくのです。しかしだからと言って、主イエスを裏切ったユダに責任がないわけではありません。ユダはやはり自分の意志で主イエスを引き渡したのです。神様の独り子、救い主イエスの教えを信じて受け入れ、主イエスが歩んでおられる道に従っていくことを拒み、主イエスを抹殺しようとしたのです。それは恐ろしい罪です。「人の子を裏切るその者は不幸だ」と主イエスはおっしゃいました。この「不幸だ」は口語訳聖書では「わざわいである」となっていました。「不幸だ」にしても「わざわいである」にしても、主イエスを裏切る者にはその罪に対する罰として、たたりとして、何か不幸や災いがふりかかる、ということではありません。そんな生易しいことではなくて、主イエス・キリストを受け入れず、拒み、抹殺してしまう罪によって、その人の人生そのものが災いとなってしまうのです。「生まれなかった方がその者のためによかった」と言われるような人生になってしまうのです。ですから私たちは単なる謙遜で、自分もユダと同じような裏切り者ですなどと言うことはできません。そんなふうに簡単に言う人は、人間の罪の深刻さ、罪に対する神様の裁きの厳しさがまだ分かっていないのです。

主イエスの招き
 主イエスを裏切る罪のこの深刻さがより深く分かってくることによって、このイスカリオテのユダが「十二人の一人」とされていることの、また主イエスが過越の食事を備えて下さり、そこにユダを含めた十二人を招き、あずからせて下さっていることの大きな、驚くべき恵みが見えてきます。この過越の食事において、これは次回に読む所ですが、主は弟子たちに、ご自分の体と血とにあずかるためのパンと杯を与えて下さいました。つまり、聖餐を定めて下さったのです。聖餐は、神の独り子であられる主イエスが、十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しのための贖いを成し遂げて下さった、その救いの恵みを私たちが味わい、それによって生かされるための食事です。主イエスはその食卓を備えて、ユダも含めた弟子たちを、そして私たちを、招いて下さっているのです。生まれなかった方がよかったような罪に捕えられてしまっている私たちですが、主イエスが選んで下さり、罪の赦しを与え、主の祝福の下で生きる者へと新しく生まれ変わらせて下さるのです。ユダが弟子の一人として選ばれたのは、主イエスの失敗ではありません。まさにそこに、私たちのための主イエスの大きな恵みと招きのみ心があるのです。ユダがこうして最後の晩餐にあずかっているのも、主イエスのその恵みと招きによることです。主イエスによって選ばれ、招かれて弟子となった人々は皆、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」というお言葉を聞いて、「まさかわたしのことでは」と恐れおののいて言わなければならない者たちでした。しかしその弟子たちが、ユダ本人も含めて、主が備えて下さった過越の食卓に招かれ、これに預かっているのです。主イエスのこの招きは、十字架の死と復活を通して私たちにも与えられています。その招きに応えて私たちは洗礼を受け、キリスト者となるのです。その私たちを主イエスは、聖餐の食卓にあずからせ、ご自分の体と血とによって養い、力づけて下さいます。私たちは皆、主イエスを裏切る思いを持っており、「まさかわたしのことでは」と恐れおののいて言わざるを得ない者たちですが、主イエスのこの恵みによる招きに応えて洗礼を受け、聖餐によって養われて生きるならば、生まれなかった方がよかったような罪人である私たちが、生れてきてよかった者として、不幸だ、わざわいだと言われる人生ではなくて、幸いな、祝福を豊かに受ける人生を歩むことができるのです。

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