主日礼拝

喜びを伝えずにはいられない

説教 「喜びを伝えずにはいられない」 副牧師 川嶋章弘
新約聖書 フィリピの信徒への手紙第4章4-7節

新・明解カテキズム
問89 イエスさまに救われたわたしたちは、どのように生きるのですか。
答   救われた喜びを多くの人と分かち合うために伝道します。

総員礼拝
 本日の礼拝は、年に一回の「総員礼拝」です。「総員礼拝」では、普段は9時からの教会学校礼拝に出席している教会学校の子どもたちと保護者の方々と、10時30分からの主日礼拝に出席している方々が、一緒に礼拝を守ります。10時30分からの主日礼拝のことを、よく「大人の礼拝」と呼びます。確かに、主日礼拝に出席している方は大人の方が多いですが、でも10時30分からの礼拝は、大人だけしか出席できない礼拝ではありません。子どもから大人まで、誰でも出席してよい礼拝です。ですから教会学校の子どもたちや保護者の方々で、10時30分からの礼拝を覗いてみたいと思ったら、いつでも出席してください。大歓迎です。

神の家族
 「総員礼拝」は、今日、この礼拝に集っている私たちが、神の家族であることを実感するときでもあります。私たちは神様が招き、集めてくださった神の家族です。家族であるとは、どういうことでしょう。それは、他人ではない、関係ない人ではない、ということです。教会学校にもたくさんの子どもたちと保護者の方々がいるし、教会にもたくさんの人たちがいるので、お互いに顔も名前も知らない、ということのほうが多いと思います。それでも私たちは皆、神様がこの教会に呼び集めてくださった神の家族であり、他人ではないのです。家族の基本は何でしょう。それは、挨拶をすることです。偉そうに言っていますが、私はしょっちゅう怒られています。家に帰って、家族に「おかえりなさい」と言われても、「あー」とか「う~ん」とか言うと、「まずは、ただいまじゃないの」と怒られています。でも確かにそうです、家族の基本は挨拶をすることです。だから神の家族である皆さんも、教会で会ったら、たとえ顔や名前を知らなくても、ぜひお互いに挨拶をしてください。神の家族なのに、挨拶をしないのはおかしいし、挨拶をすることによって、お互いが神の家族であることを実感できるようにもなるのです。

『新・明解カテキズム』に沿って
 9時からの教会学校礼拝も、10時30分からの主日礼拝も、神様を礼拝していることにまったく変わりはありません。その一方で、教会学校礼拝と主日礼拝では違いもあります。いくつか違いがありますが、今日は、教会学校礼拝だけでしていること、普段、教会学校の子どもたちと保護者の方々だけが親しんでいることに注目したいと思います。教会学校礼拝でも、主日礼拝とまったく同じように、聖書が読まれ、その聖書のお話、説教が語られています。でも教会学校礼拝では、それだけでなく、『新・明解カテキズム』の問と答に沿って、説教が語られています。聖書に基づき、カテキズムに沿って説教が語られているのです。「カテキズム」というのは、問と答の形で、教会が信じていることを教えているものです。Q&A形式になっているので、教会が信じていることを学びやすくなっています。本日は総員礼拝なので、教会学校礼拝と同じように、『新・明解カテキズム』に沿って説教を語ります。今日の『新・明解カテキズム』は問89で、その問と答が、教会学校の週報にも、教会の週報にも記されています。

伝道
 問89は、「イエスさまに救われたわたしたちは、どのように生きるのですか」で、その答は「救われた喜びを多くの人と分かち合うために伝道します」です。「イエス様に救われた私たちは、どのように生きるのですか」という問に対して、「私たちは伝道します」と答えています。そして伝道するというのは、イエス様に救われた喜びを、多くの人と分かち合うこと、ほかの人に伝えることだ、と言われているのです。この「伝道」は、私たちの教会の使命です。私たちの教会にとって一番大切なことだ、と言ってもよいと思います。今日は、教会にとって一番大切な「伝道」について、聖書から、また『新・明解カテキズム』に沿って聞いていきたいのです。

神様に愛され、イエス様に救われたから
 イエス様に救われた私たちが伝道する、と言われていました。ということは、伝道は救われるために、神様に愛されるためにするのではない、ということです。頑張って伝道しないと、神様は私たちを愛してくれないかもしれない、と不安になりながら伝道するのではありません。神様は、私たちが何か善いことや立派なことをするから、私たちが良い子だから、私たちを愛してくださるのではありません。何もしていないのに、むしろ神様を悲しませてばかりいる悪い子なのに、私たちを愛してくださるのです。これは、とってもびっくりすることだと思いませんか。だって、子どもでも大人でも、良い結果を出したり、立派なことをすれば、褒められたり評価されたりするけれど、結果を出せなかったり、失敗すれば、叱られたり評価されなかったりするのが、当たり前だからです。テストで良い点を取ったり、仕事で成果を上げれば、褒められたり評価されたりします。でもテストで悪い点を取ったり、仕事で成果を出せなければ、叱られたり評価されなかったりするのです。けれども聖書は、神様はそうではない、と語っています。聖書は、私たちが皆、罪人であると語っています。聖書が語る罪というのは、警察に捕まってしまうような悪いことをするという意味ではありません。警察に捕まるようなことは何もしていなくても、神様に背いて、神様なしに自分の力だけで生きようとすることです。私たちは自分勝手に生きて、神様を悲しませ、隣人(お友だち)を傷つけ、また自分自身も傷つけている罪人なのです。私たちは皆、罪人で、神様から見れば、私たちは皆、不合格です。それにもかかわらず神様は、私たちのために、独り子イエス様を送ってくださいました。イエス様が私たちの代わりに、私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださったことによって、私たちは罪を赦され、救われて、イエス様と一緒に、神様と一緒に生きることができるようになったのです。このイエス様の十字架に、神様の私たちへの大きな愛が示されています。イエス様を十字架につけることによって、神様は私たちに、「あなたのことが大切だよ」「あなたは生きていていいんだよ」「あなたは合格だよ」とおっしゃってくださったのです。だから伝道というのは、神様に愛されるためにするのではありません。そうではなく神様に愛されている私たちが、その神様の大きな愛を、そしてイエス様のことを、ほかの人に伝えていくこと、届けていくことなのです。神様が私たちを愛してくださり、イエス様によって救ってくださったことが、先にあります。その救いに感謝して、神様に愛され、イエス様に救われた私たちが、イエス様と一緒に生きている私たちが伝道をするのです。

いつも喜びなさい
 改めて問89を見てみましょう。「イエスさまに救われたわたしたちは、どのように生きるのですか」とあります。そしてその答が、「救われた喜びを多くの人と分かち合うために伝道します」とあります。伝道は、イエス様に救われた私たちが、救われた「喜び」を多くの人と分かち合うことです。ということは神様に愛され、イエス様に救われた私たちには、「喜び」が与えられている、ということになります。

 このことをパウロという人が、今日の聖書箇所で、フィリピの教会の人たちに、このように語っています。今日の聖書箇所の最初の4節です。「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。パウロは、「いつも喜びなさい」と言います。いつも喜んでいることができたら、とても素敵なことだと思いませんか。でも、同時にこんなふうにも思いませんか。「そんなの無理だよ、できっこない」「現実離れしている」「パウロって、お気楽な人なの?」。私たちは嬉しいことや楽しいことがあれば喜ぶことができます。でも悲しいことやつらいことがあれば、喜ぶことなんてできません。そして私たちの毎日は、嬉しいことや楽しいことばかりではありません。むしろ悲しいことやつらいことのほうが多いのではないでしょうか。「パウロって、そんなことも分からないのかな」、そんなふうに思うかもしれません。でもパウロは、誰よりも、人生には悲しいことやつらいことがたくさんあることを知っていた人だと思います。この手紙を書いたときも、パウロは、フィリピの教会の人たちが、つらい毎日を過ごしていることを知っていました。教会の外の人たちが、教会の人たちを怖がらせていたし、その人たちの影響を受けて、教会の人たちの中にも、教会の一致を壊す人たち、つまり神の家族を壊す人たちがいたのです。それだけではありません。パウロ自身もこの手紙を書いたとき牢屋に入れられていました。もし私たちが牢屋に入れられたら、つらくて喜ぶことなんてできません。でもパウロは、自分が牢屋に入れられて、不自由な生活をしているのに、つらいことがたくさんあるはずなのに、ひどいことを言われたり、されたりしたかもしれないのに、自分のことよりもフィリピの教会の人たちを心配して、「いつも喜びなさい」と伝えたのです。それは、つらい毎日の中でも、頑張っていつも喜んでいなさい、歯を食いしばって喜んでいなさい、ということではありません。パウロは、自分の力でいつも喜びなさい、と言ったのではありません。そんなことはできない、とよく分かっていました。パウロは、自分の力でいつも喜びなさいと言ったのではなく、「主にあっていつも喜びなさい」と言ったのです。「主にあって」というのは、主イエス・キリストにあって、ということです。イエス様にあって、イエス様がいつも一緒にいてくださるから、いつも喜びなさい、とパウロは語ったのです。だからこの喜びは、私たちが普通に考えている喜びとは違います。嬉しかったり楽しかったりするから喜ぶのではありません。嬉しいときや楽しいときはもちろん、たとえ悲しいときやつらいときも、自分の力ではとても喜ぶことなんてできないときも、イエス様が一緒にいてくださることを喜ぶ、喜びなのです。嬉しい自分、楽しい自分、悲しい自分、つらい自分、どんな自分であっても、どんなときも、イエス様が一緒にいてくださることを喜ぶ、喜びなのです。

何事も思い煩ってはなりません
 またパウロは、6節で「何事も思い煩ってはなりません」とも言っています。どんなことも悩んではいけません、と言うのです。私たちはそんなことを言われても困ると思います。私たちは悩まない日なんてないからです。子どもも大人も、毎日、たくさんのことを悩んでいる、思い煩っているのです。そして私たちは、悩みに直面すると、自分の力で何とかしなくてはならない、と思ってしまいます。もちろん自分の力でできることは、自分でしたほうが良いでしょう。でも私たちはしばしば、自分の力ではどうにもならないことまで、自分の力で何とかしようとします。悩みに直面して、自分の力で何とか自分を守ろうとして、でも守れるかどうか分からなくて、不安になっているのです。

 しかしここでも、「何事も思い煩ってはなりません」に、「主にあって」と加えたほうが良いと思います。ここでパウロが言っているのは、「主にあって、何事も思い煩ってはなりません」ということです。イエス様が一緒にいてくださるから、どんなことも悩まなくて良い、と言うのです。私たちがイエス様と一緒にいることができるのは、神様が独り子イエス様を十字架につけてくださり、そして死者の中から復活させてくださったからです。独り子イエス様の命を犠牲にするほどに神様が私たちを愛してくださっているからです。イエス様が私たちといつも一緒にいてくださるとは、私たちがこの神様の愛をいつもいただいて歩んでいるということにほかなりません。私たちは確かに、毎日、悩みに直面します。自分の力ではどうにもならないこともいっぱいあります。しかしそのとき私たちは、自分の力に頼るのではなく、イエス様と一緒に生きることができるようにしてくださった、神様に頼ることができます。独り子イエス様を十字架につけるほどに私たちを愛してくださり、大切にしてくださっている神様に頼り、委ねていくことができるのです。

人間の計画を超えた神様の計画に信頼して
 だからパウロは、このように言います。6節の後半です。「どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい」。どんな問題に直面しても、どんな悩みに直面しても、どんなにつらいことがあっても、私たちを愛してくださる神様に信頼し、その神様に感謝を込めてお祈りをして、自分が求めていることを、願っていることを神様に打ち明けなさい、と言うのです。それは、神様にお祈りすれば、どんな問題も、どんな悩みも解決してしまう、つらいことも消えてなくなってしまう、ということではありません。次の7節で、パウロはこう言っています。「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」。「人知」というのは、難しい言葉ですが、人間の考えや計画のことです。自分の力に頼るとき、私たちは人間の考えや計画に頼っています。でも人間の計画に頼っても、私たちは本当に安心することができないし、自分を守ることもできません。しかし人間の計画を超えた神様のご計画に信頼するなら、神様は、私たちをイエス様にあって守ってくださるのです。イエス様がいつも一緒にいてくださる歩みに与えられる神様の平和が、たとえ問題や悩みそのものは解決しなくても、つらいのは変わらなくても、私たちを守り、私たちに平安、安心を与えるのです。自分の計画ではなく、自分の計画をはるかに超えたことを実現してくださる神様に信頼し、神様に委ねて生きることによって、私たちは神様の愛と守りの中で、安心して生きていくことができるのです。

神様の愛によって与えられる喜び
 このようにイエス様がいつも一緒にいてくださり、神様の愛をいつもいただき、神様に守られて歩んでいる私たちは、主にあっていつも喜んでいます。その喜びは、いつも笑顔でいるとか、いつも明るい声で話せるとか、そのような喜びとは違います。もちろん笑顔でいることができたら、明るい声で話すことができたら良いとは思います。でも、笑顔でいられないときも、明るい声で話せないときも、そのような自分をも支えている喜びが、私たちには与えられています。イエス様が一緒にいてくださるから、神様の愛と守りの中にいるから、私は大丈夫、という喜びが与えられているのです。自分の力ではどうすることもできない問題や悩みに直面し、とてもつらくて苦しいときも、イエス様が一緒にいてくださるから、「あなたのことを愛しているよ」「あなたのことが大切だよ」「あなたは生きていていいんだよ」という、神様の語りかけを聞き続けることができます。この神様の愛によって与えられる喜びは、たとえ自分の力では喜べないときも、私たちを支え続ける喜びなのです。

喜びを伝えずにはいられない
 そして私たちは、このイエス様に救われた喜びを、神様の愛が与える喜びを、多くの人と分かち合い、多くの人に伝えていきます。伝えずにはいられないのです。それが、伝道するということです。5節に「あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい」とあります。「寛容な」とは、ほかの人と争わないということです。自分に対して罪を犯す人を赦すことであり、お友だち(隣人)を愛することです。私たちは頑張って、努力して、寛容な心を、お友だちを愛する心を、ほかの人に知らせていくのではありません。そんなことはできません。そうではなく、イエス様が一緒にいてくださる喜びに、神様の愛が与える喜びに満たされている私たちが、日々、色々な人と関わる中で、その喜びが私たちから溢れ出て、周りの人たちに届いていく、伝わっていくのです。イエス様に救われた喜びに満たされているから、私たちはほかの人を赦していくよう変えられていきます。神様の愛が与える喜びに満たされているから、私たちは周りの人を愛していくよう変えられていくのです。そのことを通して、私たちは、イエスさまと一緒に生きる喜びを、神様の愛が与える喜びを、身近な人に届け、伝えていくのです。今、自分自身が、イエス様がいつも一緒にいてくださる喜びに支えられているから、たとえ苦しいときも悲しいときもつらいときも、この喜びに支えられているから、私たちもこの喜びを、周りの人たちに伝えずにはいられないのです。

関連記事

TOP
11月29日 青年伝道夕礼拝
11月29日 青年伝道夕礼拝