説 教 「主の道を備える者」 牧師 藤掛順一
旧 約 イザヤ書第40章1-5節
新 約 マタイによる福音書第11章7-15節
預言者を見るために
マタイ福音書第11章の7節に、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」という主イエスの人々に対する問いかけあります。この問いかけは次の8節にも、「では、何を見に行ったのか」と繰り返されています。これは私たちに対する問いかけでもあります。私たちは、何を見るためにこの礼拝に集まっているのでしょうか。
人々が荒れ野に見に行ったのは、洗礼者ヨハネでした。この人のことは3章に語られていました。彼はユダヤの荒れ野で、悔い改めの印としての洗礼を人々に授けていました。そして3章11節にあるように、自分の後から、自分よりも優れた方がおいでになる、と言っていました。そのようにヨハネは、来るべき救い主の到来を告げ、その道備えをしたのです。つまりヨハネは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書40章の3節にあった、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通す」者だったのです。そのヨハネは今、11章2節にあるように獄中にいます。時の支配者ヘロデの怒りをかって捕えられていたのです。その獄中からヨハネは、主イエスのもとに自分の弟子たちを遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせました。この問いとそれに対する主イエスの答えについては、先々週の礼拝において読みました。本日のところは、7節にあるように、ヨハネの弟子たちが帰った後のことです。主イエスは今度は群衆に向かって、ヨハネについて語り始められたのです。そして、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と問われたのです。まさか荒れ野に、風にそよぐ葦を見に行ったわけではなかろう、しなやかな服を着た人を見に行ったわけでもなかろう。ヨハネは、らくだの毛衣を着、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたとあります。しなやかな服を着て王宮にいる人々とは正反対の生活をしていたのです。そういうヨハネのもとをあなたがたが訪ねて行ったのは何を見るためか。その問いに主イエスはご自分で答えていかれます。9節です。「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたは、預言者を見るために、預言者と会うためにヨハネのもとへ行ったのだ。預言者というのは、神のみ言葉を人々に伝える者です。ですから預言者を見に荒れ野へ行ったというのは、神のみ言葉を聞くために行ったということです。あなたがたは、ヨハネという預言者から神のみ言葉を聞こうとして荒れ野へ行った、そうだろう、と主イエスは言っておられるのです。
神のみ言葉を聞くために
それは今礼拝に集っている私たちと共通することでもあります。私たちは荒れ野ではなくてこの教会堂に来ているわけですが、それはこの建物を見に来たのではないし、牧師の顔を見に来たのでもありません。私たちはここに、神のみ言葉を聞くために集まっているのです。荒れ野に、ヨハネに会いに行った人々と、礼拝に集っている私たちはその点で共通するものがあると言えるでしょう。神のみ言葉を聞くためにヨハネのもとに行った人々に主イエスは、「そうだ、あなたがたが会いに行ったヨハネは預言者だ。しかし、預言者以上の者でもあるのだ」とお語りになったのです。ヨハネは預言者であり、しかし預言者以上の者でもある。それはどういうことなのでしょうか。
預言者というのは、今も申しましたように、神のみ言葉を語る人です。預言者によって私たちは、み言葉を聞きます。神の教えを聞きます。それによって神のみ心を知り、また神が今自分に求めておられることを知るのです。ヨハネに関して言えば、彼は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と教え、人々に罪の悔い改めを求めました。自分の罪を知り、悔い改めて神に赦しを乞い、新しくなることを今神は求めておられる、ということをヨハネは人々に語ったのです。そしてその悔い改めの印として彼は洗礼を授けました。人々は、ヨハネのもとに来て洗礼を受けることによって、自分の罪を悔い改めて神に赦していただき、新しくなろうとしたのです。そのようにして神のみ心、教えに従おうとしたのです。人々はこのように、預言者であるヨハネのもとに行って、神のみ言葉を聞き、それを理解し、それに従おうとしたのです。
預言者以上の者
しかし主イエスは、ヨハネは預言者以上の者であると言われました。それは、通常預言者のもとへ行って人々がすること、そこで起ることより以上のことが、ヨハネのもとでは起っているということです。いったい何が起っているのでしょうか。10節に「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」とあります。この「あなた」とは救い主です。救い主のための道を準備させるために神が使者を遣わす、その使者こそヨハネなのだと主イエスはおっしゃったのです。ヨハネが預言者以上の者であるとは、このことです。救い主が来られることを告げ、その道を備えるために遣わされた。そこに、他の預言者たちとヨハネの違いがあるのです。しかし、救い主が来る、ということを告げたのはヨハネが最初というわけではありません。この10節に引用されているのは、旧約聖書マラキ書第3章の1節ですが、そのマラキを始めとして多くの預言者たちが、救い主の到来を告げていました。しかしそれらの預言者たちとヨハネとは決定的に違うと主イエスは言っておられます。どこが違うのか。それはヨハネが、やがて救い主が来る、と告げただけではなくて、今そのことがまさに実現しようとしていると告げ、人々をその救い主との出会いに備えさせたことです。ヨハネのもとに来た人々は、今まさに来たろうとしている救い主との出会いに備えることを求められたのです。ということはつまり、ヨハネのもとでは、神のみ言葉を聞いて、その教えを学んで実行していく、というだけではすまなかったのです。それだけではすまない特別のことが、ヨハネのもとでは起っていたのです。その特別なこと、それまでの預言者たちのもとでは起らなかったことを語っているのが、12節です。
「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」。これはとても意味がとりにくい文章で、昔から人々の頭を悩ませ、またいろいろに解釈されてきました。しかし確かなことは、ここには洗礼者ヨハネにおいて新しく起っていることが語られている、ということです。ヨハネの登場によって、何が新しく起っているのでしょうか。難しいのは「襲う」という言葉の意味です。天の国が襲われ、奪い取られようとしている。その言葉だけを取り出して読めば、天の国が敵による攻撃を受けている、と取れるでしょう。ヨハネも今その敵の攻撃によって捕えられ、牢獄に入れられているということになるのです。しかしその読み方だと、敵が天の国を滅ぼそうとしているということになります。しかしこの「奪い取ろうとしている」という言葉はそういう意味ではなくて、むしろ「手に入れようとする、つかもうとする」ということです。つまり激しく襲う者たちが天の国を手に入れようとしている、と読めるのです。そうするとこの「襲う」という言葉は、滅ぼそうとするという意味ではなくて、天の国、神のご支配、つまり救いにあずかろうとしている、ということになります。だからここは、ヨハネの登場以来、人々は天の国を獲得しようと熱心に励んでいる、とも読めるのです。そしてこちらの読み方の方が、ヨハネは預言者以上の者であるという言葉と繋がります。あるいは11節の「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」という言葉とも繋がります。12節は、ヨハネが活動を始めて以来、天の国、神の救いが、決定的に人々のものとなり始めている、ということを語っているのです。
時代の転換点に立つヨハネ
このように洗礼者ヨハネは、時代の決定的な転換点に立っています。そのことを13節が語っています。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」。ヨハネは、預言者と律法の時代の終りに立っているのです。旧約聖書の時代の終わりと言ってもよいでしょう。ヨハネからいよいよ新しい時代、救い主イエス・キリストの時代、新約聖書の時代が始まっているのです。私たちはこのことを、歴史の年表をながめるように、ああここで時代が変わったのか、と他人事のように見ているわけにはいきません。このことは、私たち一人ひとりに、あなたは預言者と律法の時代を生きているのか、それとも主イエス・キリストによる新しい時代を生きているのか、と
問いかけているのです。それはどういうことなのでしょうか。そこで、先ほど申しましたことに戻らなければなりません。預言者や律法の時代というのは、神のみ言葉や教えを聞き、それを理解して、それを自分の生活の中で実行していこう、その教えに従って生きていこうとする、という時代です。しかしヨハネの登場によって、もはやそれでは済まないことになっている。ただ教えを聞いて理解して実行するというのではなく、この世に来られた救い主イエス・キリストと対面しなければならない、それが、今私たちが生きている新しい時代なのです。ヨハネは人々に、その新しい時代がいよいよ始まろうとしていることを告げ、救い主との対面に備えさせました。私たちも、この主イエス・キリストとの対面に備えなければなりません。しかもそれは、いつか対面する時が来るからそれに備える、ということではありません。その時は今なのです。私たちが今こうして礼拝に集っているのは、ここで、救い主イエス・キリストと対面するためなのです。「あなたがたは、何を見るためにこの礼拝に集っているのか」という問いへの本当の答えがここにあります。私たちは、教会の建物を見るためにでも、牧師の顔を見るためにでもなく、み言葉を聞くためにここに集まっているのだと申しました。でもそれだけでは十分な答えではありません。ここでみ言葉を聞いて、それを理解して、実行していけば、神に喜ばれる正しい者になれる、という思いでみ言葉を聞きに来ているのだとしたら、私たちはまだ預言者と律法の時代を生きているのです。それは新しい時代に対応できていない、時代遅れな生き方なのです。礼拝においてみ言葉が語られるのは、私たちがそれを理解して実行するためではありません。私たちはみ言葉を聞くことによって、私たちの救い主であられるイエス・キリストにお目にかかるのです。主イエスと出会うのです。礼拝のたびに、その主イエスとの対面を繰り返しながら生きていくのです。それこそが、主イエス・キリストの時代、新約聖書の時代に相応しい生き方なのです。
天の国が突入してきている
ヨハネは人々に、救い主と対面する備えをさせました。しかしそれは、救い主にお会いするのに相応しい清さ、正しさ、立派さを持て、と教えた、ということではありません。先ほどの12節の、「天の国は力ずくて襲われている」という言葉は、別の訳し方をすれば、「天の国は力をもって突入してきている」とも訳すことができます。人々が頑張って天の国を獲得していると言うよりも、天の国の方が、力をもって私たちのただ中に突入して来ているのです。主イエス・キリストがこの世に来られたことによって起っているのはそういうことです。この世に来て下さった主イエスのみ言葉とみ業とによって、人々は天の国、神の救いに巻き込まれているのです。努力して正しさや清さを身に着けた者がそれを獲得しているということではないのです。礼拝において私たちが主イエスにお会いすることもそれと同じです。主イエスの方から、み言葉によって私たちと出会い、私たちの中に突入してきて下さり、私たちを神の恵みに巻き込んで下さっているのです。ヨハネは救い主との出会いへの備えとして、悔い改めることを求めました。悔い改めは、自分が神の恵みに相応しくない、罪深い者であることを認めることから始まりますが、その私たちが自分で自分を清く正しい者とすることが悔い改めなのではありません。罪人である自分に赦しを与えるために、救い主イエス・キリストがこの世に、そしてこの自分の内に、来て下さったことを信じて、主イエスを心の内にお迎えすること、それこそが私たちに求められている悔い改めです。それによって、私たちは、救い主イエス・キリストによる救いにあずかって生きることができるのです。
天の国で最も小さな者でも、ヨハネより偉大である
ヨハネも預言者としてみ言葉を語りましたが、そのみ言葉は、ただ聞いて、理解して、それに従って生きるように努めればよいというものではなくて、今や現れようとしている救い主イエス・キリストとの出会いへと人々を導くものでした。神のみ言葉を聞くことによって、主イエス・キリストにお目にかかる、という時代が、このヨハネから始まったのです。ヨハネは預言者であり、預言者以上の者であるということの意味はここにあります。ヨハネが女から生まれた者のうちで最も偉大な者であると言われる理由もそこにあります。しかしそこには同時に、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とつけ加えられています。天の国とは、主イエス・キリストにおいてこの世に来たり、私たちの現実の中に突入してきている神の恵みのご支配です。主イエスと出会い、主イエスとの交わりに生きている者、主イエスによる神の救いの恵みに与かっている者は、その天の国を生きています。その中の最も小さな者も、ヨハネより偉大なのです。それは、ヨハネは、自分の後から来る方によって実現すると語った天の国にまだあずかっていなかったのに対して、主イエスとの交わりに生きている人はその天の国に既にあずかっているからです。ヨハネは預言者と律法の時代の終りに位置し、その中で最も偉大な人でした。しかし主イエス・キリストによって天の国、神の恵みのご支配がこの世に突入してきている今、私たちに与えられている恵み、祝福は、ヨハネに与えられていた恵みよりもはるかに大きいのです。
主イエスを信じることによって
主イエスは洗礼者ヨハネのことをこのように群衆にお語りになりました。それはヨハネの弟子たちが帰った後のことでした。せっかくなら、これらの言葉をもヨハネに伝えてやればよかったのに、と思います。「来るべき方はあなたなのですか」と尋ねてきたヨハネが、自分について主イエスが「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と語られたのを聞けば、救われる思いがしただろうと思うのです。しかし主イエスはヨハネには、先々週に見たように突き放したような言葉しか与えておられません。それは不親切なことのようにも思えますが、しかしそこにはやはり意味があると思います。ヨハネが預言者以上の者であり、救い主のために道を整えることによって、時代の転換点に立っている、そのことは、ヨハネ自身が主イエスを信じなければ成り立たないのです。主イエスはヨハネに、「わたしにつまずかない者は幸いである」とおっしゃいました。それは、「あなたが私につまずくことなく、私を来るべき救い主と信じるならば、そのことによってあなたは、預言者以上の者、預言者と律法の時代で最も偉大な者、そしてその終りに位置する者となることができる」ということなのです。ヨハネが、ここに語られているようなすばらしい役割が自分に与えられていることを知るためには、彼自身が主イエスを信じることが必要だったのです。
信仰の決断が求められている
主イエスは同じ信仰の決断を人々にも求めておられます。14節以下に、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とあります。ヨハネは、「現れるはずのエリヤである」、それはマラキ書3章の23節によることです。旧約聖書の一番最後の言葉です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」とあります。「大いなる恐るべき主の日」、それはその前のところに語られているように、神ご自身がこの世に来られ、裁きを行い、救いと滅びとをお定めになる日です。そのことの前に、預言者エリヤが遣わされ、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。つまり、神と人々との関係を整えて、来るべき主の日が、滅びの日ではなく救いの日となるようにするのです。主イエスに先立って遣わされ、主イエスのための道備えをしたヨハネこそ、このエリヤです。ヨハネの働きによって、人々は救い主イエス・キリストと対面し、主イエスを信じて生きることへの備えを与えられているのです。それによって「大いなる恐るべき主の日」は、神の裁きによる滅びの日ではなくて、救いの完成の日となるのです。しかしそのことは、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」とあるように、人々が、ヨハネをエリヤとして、救い主の先駆けとして認め、彼の示しに従って救い主との対面に備えていくかどうかにかかっています。「耳のある者は聞きなさい」という言葉も、その信仰の決断を求めています。私たちも、その信仰の決断を求められているのです。ヨハネをエリヤとして認め、そのエリヤが道備えをした主イエスにおいて、天の国がこの世に、私たちの現実の中に突入してきていることを信じる、その信仰によって私たちは、天の国に連なる者となるのです。そして、ヨハネよりも偉大な恵みを与えられて生きる者となるのです。
私たちは今、何のためにこの礼拝に集まっているのでしょうか。それは、み言葉によって私たちと出会って下さる主イエス・キリストと対面するためです。み言葉はただ学んで知識として蓄え、生活の指針としていくためのものではありません。礼拝においてそれが語られる時、生ける主イエス・キリストご自身が私たちと出会って下さるのです。この主イエスとの出会いによって、私たちはクリスマスの喜びに満たされるのです。