主日礼拝

聖霊の導きによって

「聖霊の導きによって」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 イザヤ書第32章15-20節
新約聖書 使徒言行録第16章6-10節

ペンテコステの出来事
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスの復活から五十日目、主イエスが天に昇られてから十日目のこの日、弟子たちは復活なさった主イエスのご命令の通りに集まっていました。その主イエスのご命令は、使徒言行録第1章4、5節に語られていました。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」この命令です。「父の約束されたもの」即ち聖霊があなたがたに降るのを待っていなさい、と主イエスはお命じになったのです。この約束が果たされ、彼らに聖霊が降ったことが、使徒言行録第2章に語られています。それがペンテコステの出来事です。さらに主イエスは先ほどの命令の続きである1章8節で弟子たちにこう約束しておられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちは、この約束の通りに力を与えられたのです。そして彼らは、神がその独り子イエス・キリストによって実現して下さった大いなる救いの恵みを語り始めた、つまり伝道を始めたのです。しかも、いろいろな国の言葉で語り始めた、と2章にあります。これは、聖霊を受けたら外国語がしゃべれるようになった、ということではありません。聖霊を受けた彼らは、外国語のスキルを活かして国際ビジネスを始めたのではなくて、主イエス・キリストによる救いを全世界に宣べ伝え始めたのです。つまりこれは、主イエスが約束しておられた、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということの実現です。聖霊が降ったペンテコステの出来事によって弟子たちは、主イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝える者とされたのです。そして彼らの伝道によって、主イエスを信じ、洗礼を受けて、その救いにあずかる人々が生まれていきました。つまり、洗礼を受けた者の群れである教会が誕生したのです。聖霊が降ったことによって伝道が始まり、教会が誕生した、それがペンテコステの日の出来事です。私たちは本日そのことを記念し、喜び祝うのです。

今も起っていること
 聖霊が降ったことによって伝道が始まり、教会が誕生した。それはこのペンテコステの日に一回限り起ったことではありません。主イエスを信じて洗礼を受けた人々に、聖霊は次から次へと降り、彼らに力を与えていきました。つまり洗礼を受けた人々が、次から次へと「主イエス・キリストの証人」として立てられ、伝道をしていったのです。その伝道によって新たな人々が主イエスを信じるようになり、洗礼を受けていきました。こうして、全世界へと、イエス・キリストによる救いの知らせ、つまり福音が告げ知らされていったのです。それに伴って、次々に新たな教会が生まれました。ペンテコステの日にエルサレムで生まれた教会は、ユダヤとサマリアの全土に広がり、さらには全世界へと広がって行ったのです。それは全て聖霊のお働きによることです。聖霊のみ業による二千年の教会の歴史の始まりが、ペンテコステの出来事だったのです。ですから私たちが今日記念し、喜び祝うのは、二千年前の遠い昔の出来事ではなくて、二千年前に始まり、今も繰り返し起り続けていることです。今私たちがこうして礼拝を共に守っているのも、聖霊が私たちにも降っているからだし、この教会がこうして存在しているのも、聖霊が人々に降り続けたことによってなのです。

創立150周年
 私たちの教会は、医療宣教師ヘボンの働きの中で、150年前の明治7年に生まれました。ヘボンは当時のアメリカ人にとってはまさに「地の果て」だった日本に、キリストの福音を伝えるためにやって来たのです。それはヘボンが志を立てたからですが、それが可能となったのは、ヘボンにも聖霊が注がれたからです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの約束が、ヘボンにも実現したのです。そのヘボンによって誕生したこの教会のその後の150年の歴史も、聖霊によって力を受け、主イエスの証人となった多くの人々の歩みです。創立150周年を記念する今年、私たちは、その人々に降った聖霊が私たちにも降り、私たちも力を与えられて、主イエス・キリストの証人として立てられることを、そのようにして伝道が新たになされ、教会が新たに築かれていくことを、つまりペンテコステの出来事が私たちにも起こり続けていくことを祈り求めていくのです。

聖霊を受けたパウロ
 使徒言行録には、ペンテコステの日に生まれた教会に、その後も聖霊が繰り返し降って、人々がキリストの証人として立てられ、遣わされ、そして教会が新たに生まれていったことが語られています。その中で最も大きな働きをしたのはパウロでした。彼は元々はユダヤ教ファリサイ派の一員として、新たに興ってきたキリスト教会を迫害し、滅ぼそうとしていたのですが、復活した主イエスが彼に出会って下さったことによって、イエスこそキリスト、つまり救い主であると信じる者となり、それだけでなく、主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者となったのです。彼の伝道旅行によって、各地に新たな教会が生まれました。それは彼の力量によることではなくて、彼に降った聖霊が、彼をキリストの証人として立て、遣わしたことによるのです。もともとイエス・キリストに敵対し、神に逆らっていたのですから、伝道などできるはずのない彼が、聖霊によって変えられ、力を与えられて、神のみ業のために用いられたのです。

進路変更
 本日ご一緒に読むのは使徒言行録の第16章6節以下ですが、ここにも、パウロの伝道が聖霊の導きによってなされていったことが語られています。これはパウロの二回目の宣教旅行の中でのことです。6節から8節に、アジア州、フリギア・ガラテヤ地方、ミシア地方、ビティニア州、そしてトロアスという地名が並んでいます。聖書の後ろの付録の地図の中に、「パウロの宣教旅行2、3」というのがあります。旧新約聖書だと地図の8となります。それを見ながら聞いていただきたいのですが、これは地中海世界の東側、いわゆる小アジア、現在のトルコあたりを中心とした地図です。16章のはじめのところには、パウロたちは、この地図にキリキアとあるあたりのデルベ、リストラにいると語られています。そこからどう進んでいったが本日のところに語られているわけですが、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。アジア州というのは小アジアの西の方で、その中心はエフェソですので、当初パウロはエフェソに行こうとしていたのでしょう。第三回の旅行ではそのように進んでいます。しかし第2回旅行では、それができなかったので、北に進路を変えて、フリギア・ガラテヤ地方を通って行ったのです。そしてミシア地方に近づいてから、さらに北のビティニア州に入ろうとしました。しかし「イエスの霊がそれを許さなかった」とあります。なので北に行くのをやめてミシア地方を通ってトロアスに下ったのです。つまりこの地図における第二回宣教旅行の線はまっすぐにトロアスへと繋がっていますが、それは実は何度かの進路変更の結果であり、パウロが元々計画していたのとは全く違う歩みだったのです。

聖霊=イエスの霊
 このようにパウロの宣教旅行には、当初の計画を変更せざるを得ないことが度々ありました。なかなか思い通りにはいかない、ということの連続だったのです。そのことをパウロがどのように受け止めていたのかがここに語られています。「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」という6節と、「イエスの霊がそれを許さなかった」という7節です。いずれも、予定していた方向に進むことができなかったことを語っているのですが、そのことが聖霊、そしてイエスの霊によることだったと語られているのです。イエスの霊と聖霊は同じです。復活した主イエスが天に昇った後、聖霊が降り、聖霊を受けた者たちは、天に昇った主イエスとの生き生きとした交わりを与えられ、共にいて下さる主イエスに力づけられて伝道していきました。つまり聖霊は、私たちを主イエスと共に歩ませて下さる方です。だから聖霊はイエスの霊と言い替えることができるのです。

聖霊に禁じられる
 パウロたちが宣教旅行において進路変更を余儀なくされたことには、いろいろな具体的事情があったのでしょう。何らかの出来事によって予定を変更せざるを得なかったのです。しかしその具体的事情の背後に彼らは、聖霊の業を見ています。自分たちの計画を、聖霊が禁じ、イエスの霊がそれをお許しにならないのだ、と受け止めたのです。これは、負け惜しみや、思い通りにならないことを聖霊のせいにしている、ということではありません。私たちがここからしっかり受け止めるべきことは、自分たちの思いや計画が妨げられ、うまくいかずに失敗する時に、そこにも聖霊のお働きがある、ということです。私たちはともすれば、自分の思いや計画、願っていることを助け、実現して下さることが神の、そして聖霊のお働きだ、と思ってしまいます。そしてそれを妨げるものがあると、それは悪魔の仕業だ、と思ってしまうのです。そこまでは思わないとしても、事がうまくいっていない時には、神も、聖霊も、共にいて下さらない、神のみ業は今は行われていない、と思うのです。しかしそれは大きな間違いです。そのような思いは、自分の考えや願いが実現することだけが神のみ心であると決めつけることであり、神を、聖霊を、自分の思いを叶えるための僕としてしまっている、ということです。神は、聖霊は、私たちの願いや考えを実現するためにいるのではありません。神はご自身のみ心を、聖霊によってこの世に実現しておられるのです。そのみ心は、私たちの思いや願いと同じではありません。神が私たちの思いとは違うことをなさろうとしておられるなら、私たちの思いや計画は実現しないのです。自分の思い通りにならないという現実を、聖霊に禁じられている、イエスの霊がそれを許さない、というふうに、神の、聖霊のみ業として見ることが、神を本当に信じるためには必要なのです。

不可解なこと
 しかし一般論としてはそうだとしても、パウロたちは別に物見遊山の旅をしているわけではありません。「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあるように、彼らは御言葉を語ろうとしていた、つまり伝道をしようとしていたのです。その伝道が聖霊によって禁じられたのです。ビティニア州の方へ行こうとしたのも、まだ伝道がなされていない地へ行って、キリストの福音を宣べ伝えようとしたということです。ところがイエスの霊がそれを許さなかったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスのお言葉の通りに、主イエスの証人として伝道に励もうとしていたのに、他ならぬ聖霊がそれを禁じ、許さなかったのです。パウロたちは、「どうして?」と思ったでしょう。それはまことに不可解なことです。そういうことを私たちも時として体験します。決して自分勝手に何かをしようとしているのではなくて、神の命令に従って歩み、主イエスのみ心を行おうとしているのに、その計画が聖霊によって妨げられ、うまくいかない、ということがあるのです。そんな時私たちも、「どうして?」と思わずにはおれないのです。

神のみ心が示された
 トロアスに着いた時、パウロたちはまさにそのように思っていたでしょう。なぜ神は、主イエスのご命令に従って歩もうとしている自分たちの計画を妨げるのだろうか、神のみ心が分からない。しかしこのトロアスで、その神のみ心が示されました。パウロが夢の中で幻を見たのです。一人のマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願った、という幻です。もう一度、先ほどの地図を見ていただきたいと思います。トロアスは、エーゲ海に面した港町です。そこからエーゲ海を渡った対岸が、バルカン半島、ギリシアです。ギリシアの北の方がマケドニア州、南の方がアカイア州です。それは次の地図、「パウロのローマへの旅」を見ると分かります。トロアスからエーゲ海を渡った対岸がマケドニア州なのです。そのマケドニア州の人がパウロの夢に現れて、「こちらへ渡って来てわたしたちを助けてください」と願ったのです。この幻によって、主のみ心が示されました。10節に「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」とあります。これまで彼らの計画が聖霊によって禁じられたり、イエスの霊によって許されずに、変更に変更を重ねざるを得ず、その結果トロアスに導いたのは、彼らがそこから海を渡ってマケドニアの人々に福音を告げ知らせることを神が望んでおられたからだったのです。この神のみ心によって、キリストの福音がギリシアへと、つまりアジアからヨーロッパへと伝えられていったのです。

聖霊のみ業はどのようになされるか
 ここに、聖霊のみ業はどのようになされるのかが示されています。ペンテコステに弟子たちに降った聖霊は、彼らに力を与え、キリストの証人として立て、遣わしました。パウロも、聖霊によって新しくされ、キリストの福音を宣べ伝える者とされました。彼らは聖霊によって力を与えられて、伝道のための旅を計画し、遠くの地にまでキリストの福音を宣べ伝えていきました。そのような彼らの伝道によってあちこちに教会が生まれていったのです。パウロたちは、聖霊によって与えられた力を精一杯用いて、主に仕え、全力を尽くしてみ心を行おうとして熱心に努めていたのです。しかし、神が聖霊によってなそうとしておられた救いのご計画は、彼らが持てる力を精一杯尽くして立てた計画よりもはるかに大きかったのです。その神のご計画の前で、彼らが立てた計画は打ち砕かれ、変更を求められたのです。パウロたちは、自分たちがいっしょうけんめいに主に仕え、み心に従って歩もうとしている、その思いをはるかに超える、聖霊の壮大なご計画を示されたのです。そして、自分たちの思いや計画が聖霊によって妨げられることを通して、より大きな神のご計画のために用いられていったのです。聖霊のみ業はそのようにして行われていくのです。聖霊は、人間の思いや計画の実現を助けてくれる方ではありません。私たちの思いや計画など、神の救いのご計画の前では、まことにちっぽけなものでしかありません。私たちは、自分の思いや計画が妨げられ、挫折し、方向転換を迫られることによってこそ、神が私たちの思いをはるかに超える仕方で救いのご計画を実現して下さることを体験し、その中で用いられていくのです。そこに、聖霊のみ業があるのです。

ヘボンの方向転換
 ヘボンもそういうことを体験しました。彼は若くして医学博士の学位を得ましたが、彼の願いは、医療宣教師となって、キリストの福音を、まだそれを知らない外国の人々に宣べ伝えることでした。その志を共にする妻クララと結婚し、アヘン戦争の結果港を開いた中国に、医療宣教師として渡り、マカオ、そしてアモイで伝道をしたのです。中国に渡った時ヘボンは26歳、クララは23歳でした。こうして若いヘボン夫妻は、情熱をもって主に仕える道を歩み出したのです。しかしその働きは、4年ほどで終わりとなりました。妻クララが病気になったためです。病気のために、海外での働きを断念せざるを得なくなったので、彼らはアメリカに帰り、ヘボンはニューヨークで病院を開いたのです。地の果てにまで行ってキリストの証人として生きることは、キリストの約束のみ言葉に基づくものであり、彼ら夫婦が誰に強いられてでもなく、聖霊の導きによって自分たちで決断したことでした。しかしその思いと計画が、病気によって妨げられたのです。「主よ、なぜですか。あなたに従い、あなたに仕えてあなたの証人として生きようとしているのに、なぜあなたはその私たちの思いを妨げるのですか」と彼らは思ったことでしょう。しかしそれから13年後、日本が開国し、横浜の港が開かれるという知らせを聞いた時、ヘボンは、あの時自分の計画や思いが聖霊によって禁じられたのは、このことのためだったのだ、今こそ主が自分たちを、日本という新たな伝道地へと遣わそうとしておられるのだ、と確信して、ニューヨークの病院をたたみ、再び医療宣教師となることを志し、44歳で来日したのです。主なる神はそのヘボン夫妻を、当初彼らが願い、計画したのとは違う形で用いて下さいました。しかも彼らが思っていたよりもはるかに大きな働きをこの日本で与えて下さったのです。その働きの実りの一つとして、私たちの教会は150年前に誕生したのです。聖霊なる神がヘボン夫妻を方向転換させたことによって、この教会が築かれたのです。

私たちの思いを超えて働く聖霊
 聖霊は、私たちの思いをはるかに超えてみ業を行なって下さいます。私たちの思いや計画が実現しなかったり、うまくいかなかったり、方向転換を余儀なくされることにおいても、聖霊はみ業を行なって下さっているのです。この4年間私たちが体験してきたいわゆる「コロナ禍」もそうだと思います。新型コロナウイルスによって私たちはいろいろなことを妨げられてきました。教会の活動においても、お互いの交わりにおいても、また伝道においても、計画したことが出来なかったり、顔を合わせることが妨げられたり、十分な活動ができませんでした。今年になっていろいろなことが再開されつつありますが、まだコロナ前ほどには回復されていません。 しかしこのことの中にも、聖霊なる神のお働きがあるに違いないのです。神はこのことを通して、私たちの思いや願い、計画をはるかに超えた大いなる救いの恵みを実現しようとして下さっているのです。聖霊によってそのことを体験させていただき、そのみ業のために用いていただくことを、つまりペンテコステの出来事が私たちにも起こり続けていくことを祈り願いたいと思います。

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