「自分のことだけでなく」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第100編1―5節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第2章1―11節
・ 讃美歌:58、120、492
自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい
本日のお話の題は、「自分のことだけでなく」です。これは、先ほど朗読された新約聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第2章4節の「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」から取ったものです。自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うようにと聖書は教えているのです。その教えをもっと具体的に述べているのが、その前の3節です。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあります。「利己心」それはまさに「自分のことだけしか考えない」ことです。自分の利益だけを求めて、人はどうなってもよいという思い、昔は「エゴイズム」と言われていましたが、最近では「ジコチュー」という言葉が使われています。「自己中心的」のことです。言葉はいろいろと変わっても、そういう風潮は聖書が書かれたおよそ二千年前からあったのです。そして聖書はそこに「虚栄心」をつけ加えています。「虚栄」は「虚しい栄光」と書きますが、聖書の原文においてもまさにそういう意味の言葉です。自分の虚しい栄光ばかりを追い求めて、人を顧みない、尊重しない、ということです。利己心、ジコチューとこの虚栄心とは密接に結びついているのです。聖書はそれらのことを戒め、そして「他人のことにも注意を払う」ように勧めています。それは3節で言えば「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。虚栄の反対がへりくだりですが、それは「相手を自分よりも優れた者と考える」ことだと言っているのです。それは決して、自分は他の人よりも劣っているといつも考えていなければならない、などという不自然なことではなくて、他の人の優れた点、長所、良い働きをしっかり見つめ、それを受け入れ、喜びなさいということです。利己心や虚栄心に捉えられていると、他の人の長所や良い働きをちゃんと見つめて評価することができません。他の人が褒められたり喜ばれたりすると、自分が批判されたりけなされたような気持ちになってしまい、妬みと憎しみが湧いてきて、他の人の長所や良い働きを認め喜ぶことができないのです。「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という教えは、そのように自分の虚しい栄光ばかりを追い求めるのでなく、他の人の良い所、優れた点をちゃんと見つめ、それを喜びなさい、という勧めなのです。
「悪い共同体」を生み出す教え?
「他人のことにも注意を払いなさい」とはそういう意味なのですが、私たちはともすると、「いつも他人の目を気にして生きる」とか「他人と自分とをいつも見比べてそれで一喜一憂する」というような仕方で他人のことに注意を払ってしまうことがあります。「他人の目を気にする、他の人にどう見られるか、によって判断が左右される」という傾向が強いのは私たち日本人の一つの特徴でもあると思います。つまり私たちはある意味でいつも、他人のことに注意を払いながら生きているのではないでしょうか。
昨年の東日本大震災とそれによる原発事故の後、日本の社会のあり方をめぐっていろいろな人がいろいろなことを語っています。その中の、ある社会学者の文章を読んで、なるほどそうだなあと思いました。その人はこのように語っています。 日本には、平時、つまり非常時や危機ではない普通の時、に対応した行政官僚制しか社会を動かすものがない。民衆もさらには政治家も、その官僚制システムに依存し、任せっきりになっており、思考停止に陥っている。つまり自分でものを考え、社会を、言い換えれば共同体を築くことを放棄してしまっている。そういう行政依存、お上依存の体質の中で、日本人は「悪い共同体」を生み出してしまっている。「悪い共同体」というのはこの人に言わせると、人々が既存のシステムに依存して思考停止に陥り、自分で考えて共同体を築いていこうとせず、何か問題があっても「今さらやめられない」という思いから抜け出せない、それまでと違うことをしようとすると、周囲の人々からの同調圧力を受ける、つまり白い目で見られ、いじめられてしまうために、これでいいのか、本当はどうあるべきなのか、という議論が押しつぶされていく、という共同体です。日本の原発政策を押し進めてきた学者、企業、官僚たちのいわゆる「原子力ムラ」はまさにそういう「悪い共同体」となってしまっており、「今さらやめられない」という感覚によって、コスト的にも環境へのリスクにおいても破綻している原発の推進がなされてきたと指摘されています。そしてそういうことの根本的な原因は、「我々自身に、関係性内部での立ち位置ばかり気にして真理性や合理性を優越させない〈悪い心の習慣〉があり、それによって〈悪い共同体〉を営むからだ」と言っています。つまり簡単に言えば、他人の目ばかりを気にすることによって、何が正しいか、どうあるべきか、という議論を避けてしまう、そういう私たちの心のあり様が「悪い共同体」を生んでしまっているということです。「他人のことにも注意を払う」ということが、下手をするとそういうことにもつながってしまうという危険を、特に私たち日本人は持っていると言わなければならないと思います。つまり、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という教えは、私たちが他の人との関係を、共同体を築いていく上でとても大事な教えであると同時に、それを本当に正しく理解し、適切に実行していくことはなかなか難しいことでもあると思うのです。
キリスト・イエスのへりくだり
そこで、本日の箇所の聖書の教えにさらに耳を傾けたいと思います。5節にこう語られています。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。「自分のことだけでなく、他人のことに注意を払う」ことは、キリスト・イエスにも見られる、イエス・キリストこそ、そのように生きた方だったのだ、だからこの教えを実行していくために、イエス・キリストをこそ見つめ、その後に従いなさい、と教えられているのです。
キリスト・イエスという言い方と、イエス・キリストという言い方があることを不思議に思う方もおられるでしょう。これはどちらも同じ意味です。というのは、「イエス」と「キリスト」とは、名字と名前ではないからです。「イエス」は名前です。しかし「キリスト」は、「油注がれた者」という意味の称号であって、「神様から遣わされた救い主」ということです。ですから「キリスト・イエス」も「イエス・キリスト」もどちらも、「救い主であるイエス」という意味なのです。その救い主イエスが、「自分のことだけでなく、他人のことに注意を払」いつつ歩んだとはどういうことだったのでしょうか。そこで私たちが当然期待するのは、イエス・キリストがどのような人間関係を築きつつ生きたかが語られていくことです。ところが聖書はここでそういうことを語っていません。次の6、7節はこうなっています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。キリストは、神の身分だったのだけれども、僕の身分となり、人間と同じ者になられた、というのです。ここに「身分」という言葉が使われていますが、これは人間の社会における身分制度を連想させるので相応しい訳ではないと思います。原文の言葉を直訳すると「形」です。以前の翻訳ではここは、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」と訳されていました。「形」と直訳されていたわけです。しかしこれだと「姿、形」の意味だと思われてしまうので、新しい訳では「身分」としたわけです。いずれもぴったりとはまる訳ではないのですが、要するに言われているのは、神の独り子であり、ご自身がまことの神であられるイエス・キリストが、自分を無にして一人の人間となられた、ということです。そこにキリストの「へりくだり」が見られるのです。「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と言われています。キリストは神の子としての自分の栄光にしがみつくのでなく、自分からそれを棄てて、へりくだって人間となられたのです。
僕となられたキリスト
「自分を無にして、僕の身分になり」とも語られています。キリストは僕となられたと言うのです。それはどういうことなのでしょうか。神の独り子が人間になったことは大いなるへりくだりだと言えますが、それがどうして「僕」となったと言えるのでしょうか。そのことが8節に語られています。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。キリストは、従順な者となったのです。主人に従順に従う僕となったのです。誰の僕となったのか。それはご自分をお遣わしになった父なる神のです。人間となってこの世に来られたキリストは、父なる神のみ心に従順に従う僕として、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、つまりご自分は何の罪もないのに、この世で最も残酷な仕方で死刑に処せられるに至るまで、父なる神のみ心に従順に従って歩まれたのです。イエス・キリストが僕となられたというのは、そのように父なる神の従順な僕として十字架の死に至る生涯を歩まれたことを言っているのです。キリストのへりくだりは、人間になったことだけでなく、十字架の死に至るまで神の従順な僕として歩み通されたことにあるのです。
このキリストのへりくだりは、私たちのためになされたことでした。つまりキリストがへりくだって人間となり、そして十字架の死に至る生涯を歩んで下さったのは、私たち罪ある人間の救いのためだったのです。私たちは利己心に捕えられており、自分のことばかりを考え、自分の得になることばかりを追い求めています。また私たちは誰もが虚栄心を持っていて、自分の誉れや栄光を求めているために、他の人が自分よりも優れていると感じたり、人々から評価され、褒められるような良い働きをしているのを見ると、自分が傷付けられたように感じてしまい、隣人の誉れや栄光を素直に喜ぶことができず、むしろどす黒い妬みの思いを抱き、憎しみや敵意さらには時として殺意さえ感じてしまうのです。表面的には穏やかな良い人として生きていても、心の中には誰でもそのような罪をかかえているのではないでしょうか。またそのようなお互いの利己心や虚栄心のぶつかり合いの中で、人間関係に苦しみ、人を傷付けつつ自分も傷付いているのではないでしょうか。私たちは、神様に対しても隣人に対してもそのように罪を犯している者であって、十字架の死刑は、そのような罪のゆえに本当は私たちが受けなければならないはずのものなのです。しかし、神の独り子、まことの神であられる主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さり、そして私たちのそれらの罪を全て背負い、身代わりとなって十字架の死に至る生涯を送って下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。それが父なる神様のみ心だったのです。主イエスはこの父なる神のみ心に従い、神の僕として従順に歩んだのです。それは同時に私たち罪人の救いのために仕えて下さったということです。主イエスはある意味で私たちに仕える僕となって下さったのです。まことの神であり、私たちの主人である方、本来私たちが仕えるべき方である主イエスが、私たちの僕となり、私たちに仕えて下さった、そこに、キリストのへりくだりの根本があります。キリスト・イエスはそのようにして、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」って下さったのです。つまり主イエスは神の独り子である自分のことだけでなく、他人でありしかも神様に背き逆らっている罪人である私たちのことにも注意を払い、私たちが罪を赦され、新しくされて父なる神様と共に生きる者となるために、僕となって仕えて下さったのです。
高く引き上げられたキリスト
9節以下には、そのように徹底的にへりくだられた主イエスを、父なる神様が高く引き上げられたことが語られています。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。十字架の死に至るまで自らを低くされた主イエスを、父なる神様は高く上げて下さったのです。それは、キリストが死者の中から復活し、天に昇られたことを指しています。十字架につけられて殺された主イエスは、三日目に復活し、四十日にわたってご自分の生きているお姿を弟子たちに現し、そして弟子たちの見ている前で天に上げられたのです。このことは、聖書の語る最大の奇跡であり、説明によって理解したり納得できるようなことではありません。信じるか信じないか、という事柄です。一つ言えることは、そういうことが本当にあったのかなかったのか、ということをいくら考えていても答えは得られないということです。主イエスの復活と昇天との意味と目的を知らなければなりません。その意味を語っているのが9節後半の「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」という所であり、目的を語っているのが10、11節の「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という所なのです。イエス・キリストの復活と昇天は、父なる神様が主イエスに「あらゆる名にまさる名」、つまりもともと主イエスが天において持っておられた「神としての身分、形」、言い換えれば全てのものの主としての権威を再びお与えになったということを意味しています。そしてこの主イエス・キリストが、復活して天に上げられ、全てのものの主となって下さったおかげで、罪人である私たちは、なおからみつく罪や弱さにもかかわらず、イエスの御名の前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白して、神様をほめたたえつつこの地上を生きることができるのです。教会において毎週行われている礼拝はまさにそのような時です。教会は毎週ここに集まり、「イエス・キリストは主である」という信仰を告白し、主イエスの父である神をほめたたえているのです。主イエスが復活し、天に上げられたからこそ、このような礼拝に生きる者たちの群れである教会が二千年にわたってこの世に存続してきたのです。この教会の存在こそ、イエス・キリストが復活して天に上げられたことの間接的な証拠であると言うことができるのです。
イエス・キリストは主である
「イエス・キリストは主である」という信仰に生きる時にこそ私たちは、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という教えを正しく受けとめ、適切に実行していくことができます。なぜなら私たちが、自分のことだけを考える利己心、虚栄心から抜け出すことができるのは、「自分のことばかりでなく他の人のことも考え、大切にしなければ」と思って努力することによってではなくて、自分の、また自分の人生の、本当の主人を知ることによってだからです。自分が自分の主人、人生の主人である間は、どうしたって自分のことを第一にすることになるし、むしろそれは当然のことです。そしてそこには利己心や虚栄心がどうしても入り込んで来るのです。しかし「イエス・キリストは主である」と告白するなら、もはや自分の主人は自分ではなくなります。自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して天に昇られた主イエスこそが主人となり、自分はその僕となるのです。本当に「自分のことだけでなく他人のことにも注意を払う」生き方はそこにこそ与えられます。「他人のことにも注意を払う」というのは、他の人の良い所、優れた点、良い働きをしっかり見つめ、それを喜ぶことだと先ほど申しました。それが本当にできるようになるのは、自分という人間の良い所や優れた点や働きを、いやそれだけでなく様々な短所や弱さや罪をも含めた自分という人間の全てを、受け入れ、愛し、赦して下さっている主イエス・キリストを知ることによってなのです。主イエスが自分の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、主人である方がむしろ僕となって自分に仕えて下さった、その愛を知る時にこそ私たちは、利己心や虚栄心から解放されるのです。人の評価、人からの誉れ、栄光を求める思いから解き放たれるのです。妬みや嫉妬の思いから解き放たれるのです。そして、他の人の良い所、優れた働きを評価し、喜びをもって受け入れることができるようになるのです。自分が主イエス・キリストによって受け入れられ、愛され、大切に思われていることを知っているからです。自分が主人であり続ける間は、自分の価値は自分で明らかにしなければなりません。私たちはそれを、他の人との比較によってするしかないのです。他の人と自分を見比べて喜んだり落ち込んだりしながら、少しでも自分の評価を高めようとする中で、利己心や虚栄心に陥っていくのです。しかし「イエス・キリストは主である」という信仰を与えられるなら、自分の評価を自分で下す必要はなくなります。主人であるイエス・キリストが、「私はあなたのために十字架の死を引き受けた。あなたは私にとってかけがえのない大切な人なのだ」と宣言して下さるのです。
良い共同体を生み出す信仰
「他人のことにも注意を払いなさい」という教えは、下手をすると、「他人の目を気にする、他の人にどう見られるかによって判断が左右される」という傾向とつながる、ということを先ほど申しました。他人の目ばかりを気にすることによって、何が正しいか、どうあるべきか、という議論を避けてしまい、「今さら変えられない」という感覚と周囲からの同調圧力によって思考停止が生じ、「悪い共同体」を生んでしまうことが起るわけです。そのような間違った仕方での「他人のことに注意を払う」生き方から私たちを解放してくれるのも、「イエス・キリストは主である」という信仰です。「他人の目を気にする」というのは、人間の目、人の思いという水平的であり従って相対的な関係、比較の世界の中でのみ物事を捉えているということです。そこでは、「多くの人がそう言っているんだからそうしよう」という思いが働き、「人と違うことを主張すると白い目で見られる、物言えば唇寒しだ」ということになって、思考停止が起るのです。しかし「イエス・キリストは主である」という信仰においては、主であられるイエス・キリストのみ心に従うことこそが大切です。他の人がどう思うか、多くの人がこう言っている、という人間の世界のみの水平的なことが判断の基準になるのではなくて、神様との垂直的な関係の中で、周囲ではなくて上を見つめつつ、本当に正しいこと、あるべき姿とは何なのかを、キリストのみ心を尋ね求めつつ議論していくというあり方がそこには生まれていくのです。
「他人のことにも注意を払いなさい」という教えは、神様を信じることなしにそれをしようとするなら、人の目を気にするという比較の世界の泥沼にはまり込み、「悪い共同体」を生み出します。しかし「イエス・キリストは主である」という信仰を与えられるなら、自分が神様の恵みによって罪を赦され、受け入れられ、大切にされているという喜びのゆえに、他の人もまた神様の恵みによって賜物を与えられ、良い働きをしていることを認め、受け入れ、喜ぶことができるようになります。「他人のことにも注意を払いなさい」という教えは、そこにおいてこそ、良い交わりを生み出す教えとなるのです。そしてイエス・キリストという主に仕え従っていくことの中でこそ私たちは、人の目を気にしながら生きることから解放され、何が正しいか、どうあるべきかを自分で考え、その議論を避けることなく戦わせていくことによって、いざという時、危機の時にも力を発揮する良い共同体を築いていくことができるのです。「イエス・キリストは主である」という信仰こそ、私たちが、適切な仕方で、自分のことだけでなく他人のことにも注意を払う「良い共同体」をこの社会の中に築いていくための土台となるのです。