「キリストを見たことがないのに愛し」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第126編1-6節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章3-9節
・ 讃美歌:
それゆえ
ペトロの手紙一を読み進めています。本日は、先月に引き続き1章3-9節を読んでいきます。前回は3-5節を中心に読みましたので、本日は6-9節を中心に読んでいきますが、その内容に入っていく前に、3-5節と6-9節の結びつきに目を向けたいと思います。3-5節と6-9節を結びつけているのが6節冒頭の「それゆえ」という言葉です。6節は「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」と言われていますから、前回読んだ3-5節のゆえに「あなたがたは、心から喜んでいる」と言われていることになります。
キリストの復活を根拠として
3節では、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と言われていました。前回、新共同訳よりも聖書協会共同訳のほうが良いと思うということもお話ししました。聖書協会共同訳では「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました」と訳されています。細かい話は繰り返しませんが、大切なことは「生き生きとした希望」の根拠がキリストの復活にあるだけでなく、私たちが新たに生まれさせられることの根拠もキリストの復活にあるということです。4、5節では、キリストの復活を根拠とした「生き生きとした希望」について具体的に語られていました。4節では「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」と言われていて、5節では「終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける」と言われていたのです。私たちが「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」とは、キリストが死者の中から復活させられて永遠の命を生きておられるように、私たちも終りの日に復活させられ、永遠の命に与るということです。私たちが地上に蓄えているあらゆる財産は朽ちていきますが、天に蓄えられている「永遠の命」という財産は、朽ちることも汚れることもしぼむこともないのです。そして終りの日に復活させられ、永遠の命に与ることが「終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける」ことにほかなりません。終わりの時にキリストがもう一度この世に来てくださり、「準備されている救い」を、つまり「救いの完成」を現してくださるのです。3-5節では、終りの日の救いの完成、その救いの完成において与えられる復活と永遠の命こそ、この地上を生きる私たちに与えられている「生き生きとした希望」であることが見つめられていたのです。
迫害下にある悩みと悲しみ
ですから6節冒頭では、そのように「生き生きとした希望」が与えられているゆえに「あなたがたは、心から喜んでいる」と言われているのです。これまでにもお話ししてきましたが、ペトロの手紙一は、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害が最も激しかった地域の一つである小アジア(現在のトルコ)にある諸教会に宛てて書かれた手紙です。6節後半に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますが、その「いろいろな試練」の背後にはローマ帝国による迫害がありました。ある訳では「悩まねばならない」を「悲しまなければならない」と訳しています。キリスト者であるがゆえに自分自身が迫害を受け、あるいは大切な信仰の仲間が、神の家族が迫害を受け、悲しみの涙を流すことがあったに違いありません。キリスト者であるというだけで捕らえられ処刑された者もいたのです。捕らえられることはなくても、周りの人たちから冷たい視線を投げかけられたり、悪口を言われたり、時には暴力を受けたかもしれません。
「生ける希望」の働きによって
それにもかかわらず使徒ペトロは「生き生きとした希望」が与えられているゆえに「あなたがたは、心から喜んでいる」と言います。悲しみに覆われた日々にあって、終りの日の復活と永遠の命の希望が与えられているゆえに喜んでいるとは、この希望を「知っている」から、どんなに悲しいことがあっても涙を流すのをこらえて、無理して笑顔を作って喜んでいる、ということではありません。そうであるなら、この希望を知っていても喜べないときがあることを繰り返し経験している私たちは、むしろ絶望するしかなくなってしまうのです。しかし前回お話ししたように、「生き生きとした希望」は「生ける希望」と訳せます。「生ける希望」というのは、この希望そのものが生きている、ということです。私たちがこの希望を「生き生きとして」感じられるかどうかではなく、この希望そのものが生きて働いているのです。ですから希望が与えられているゆえに喜んでいるとは、この「生ける希望」が私たちに働きかけ喜びを与えるということにほかなりません。終りの日の復活と永遠の命の希望を知っているゆえに喜べるのではなく、終りの日の復活と永遠の命の「生ける希望」が私たちに働きかけ、私たちの内に喜びを起こしていくゆえに、私たちは喜べるのです。たとえ私たちが悲しみに覆われた日々にあって、自分自身の力や知識によって喜ぶことができないときも、「生ける希望」の働きによって喜びが起こされていくと信じて良いのです。
終りの日の喜びが「今」を生きる私たちの喜びに
「生ける希望」は、悲しみの中にある私たちにどのように働きかけるのでしょうか。それは、私たちの目を「今」ではなく「将来」、つまり終りの日に向けさせることによってです。「生ける希望」の働きによって、「今」いろいろな試練に直面して悩み、悲しんでいる私たちの目が終りの日に向くのです。ある人は、6節の「あなたがたは、心から喜んでいるのです」は、文法的には現在形だけれど、「今」ではなく「将来」のことを語っていると言います。つまり6節は、ローマ帝国による迫害下にあるキリスト者に向けて、そして私たちに向けて、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」、「悲しまなければならない」としても、終りの日には「あなたがたは、心から喜んでいる」と告げている、と言うのです。確かに私たちの本当の喜び、心からの喜びは終りの日の救いの完成にあります。そのときには、私たちはもはや悩むことも悲しむことも涙を流すこともありません。それはその通りですが、しかし私は「あなたがたは、心から喜んでいます」は、「将来」のことを言っていると同時に、やはり「今」のことを言っていると思います。なぜなら「生ける希望」は、私たちの目を終りの日に約束されている喜びに向けさせ、そのことによって「今」悩んだり悲しんだりしている私たちに喜びを起こしていくからです。希望そのものが生きているとは、そういうことではないでしょうか。救いの完成における喜びは、いつか与えられるけれど、「今」を生きる私たちとは関係がないのではなく、「生ける希望」の働きによって「今」を生きる私たちの喜びとなるのです。
今の涙は、将来喜びの歌に
共に読まれた旧約聖書詩編126編でも、「今」の悲しみと「将来」の喜びが見つめられています。「今」シオン(エルサレム)から遠く離れたバビロンで捕らわれて涙を流している人たちを、主が「将来」救い出して、シオンへと連れ帰ってくださるという約束を、詩人は告げられました。だから詩人は5-6節でこのように言います。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。「今」涙と共に種を蒔いている人に、「将来」喜びの歌と共にその実りを刈り入れることが約束されています。「今」種の袋を背負って泣きながら出て行く人に、「将来」その実りを収穫して束ねた穂を背負って喜びの歌をうたいながら帰ってくることが約束されているのです。私たちの毎日も涙と共に種を蒔くような、重荷を背負い泣きながら歩むような日々なのではないでしょうか。ここに集っている私たちは、それぞれに異なる場所、異なる状況で日々を過ごしていますが、しかしそれぞれに重荷を抱え、涙を流しながら、あるいは涙を隠しながら過ごしていると思うのです。そのような私たちに「将来」重荷が取り除かれ、涙は拭われるという約束が与えられています。「生ける希望」は、私たちの目をこの「将来」の約束へと向けさせるのです。そのことによって、重荷を負い、涙を抱えながら歩む日々にも、喜びが起こされていきます。重荷がなくなるわけでも、涙がなくなるわけでもありません。それにもかかわらず、「生ける希望」は私たちに働きかけ、希望と喜びを与え続け、私たちの歩みを支え守り続けるのです。
試練そのものによって精錬されていく
7節にはこのようにあります。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。この文章も訳が難しく、ちょっと読んだだけではよく分かりませんが、「火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて」を括弧に入れて、文の骨格を取り出すと「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され…イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」となります。しかしそれは、私たちが頑張って試練に耐えることによって、私たちの信仰が本物と証明されるならば、「イエス・キリストが現れるとき」、つまり終りの日にキリストが再び来てくださるときに、「称賛と光栄と誉れ」に与れる、ということではありません。このことは聖書協会共同訳を見ると分かります。やはり文の骨格を取り出すと「あなたがたの信仰の試練は…イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです」と訳されています。この訳では、私たちの信仰が「試練によって本物と証明され」るとは言われていません。ですからここでは私たちの信仰が試練によって本物と証明されるのか、それとも偽物と証明されるのかを見つめているのではなくて、金が火によって精錬されていくように、私たちの信仰も試練そのものによって精錬されていくことを見つめているのです。火によって精錬された金は、たとえどれほど貴重であってもいずれは必ず朽ちます。しかし試練によって精錬される私たちの信仰には、決して朽ちることのない、金よりもはるかに尊い、救いの完成における「称賛と光栄と誉れ」が約束されているのです。
キリストを見たことがないのに愛し
8節では「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と言われています。当時、目に見えない神を礼拝するキリスト者は、しばしば周りから「神の存在を信じない者」と見なされました。ギリシャやローマの神々の像のように目に見える神を信じることが、神の存在を信じることであり、目に見えない神を信じるのは、むしろ神の存在を信じないことだと思われていたのです。それゆえに当時のキリスト者は、目に見えない神を信じ、礼拝しているという理由で迫害されました。そのような中にあっても、彼らは「キリストを見たことがないのに愛し」ているし、今キリストを「見なくても信じて」いる、と言われているのです。キリストは十字架で死なれ、三日目に復活し、天に昇られ父なる神の右におられます。キリストの昇天後を歩んでいる小アジアの諸教会に連なる人たちは、そして私たちは肉眼でキリストを見ることができません。しかし当時も今も、その目に見えないキリストを信じるのが私たちキリスト者の信仰です。目に見えないものを信じるのは目に見えるものを信じるよりも難しいことです。私たちは目に見えるもののほうが確実だと思いますし、日々、目に見えないキリストより、目に見えるあれこれに心も時間も奪われています。ところが8節からは、そのような目に見えないものを信じる難しさは伝わってきません。見たことがないキリストをなんとか愛している、見えないキリストを頑張って信じている、というような印象を受けないのです。それどころか試練の中にあっても、見たことがないキリストを愛し、見えないキリストを信じる歩みに、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」が満ちあふれると言われているのです。
ペトロを愛する主イエス
なぜそのように言えるのだろうか、と思います。私たちはこの手紙を使徒ペトロの手紙として読んでいます。ペトロの名を借りてその弟子が書いたとしても、ペトロと一体となって書いたに違いないからです。別の言い方をすれば、ペトロの存在と信仰なくしてはこの手紙が書かれることはなかったということです。そしてペトロの存在と信仰に目を向けるならば、なぜ彼が小アジアのキリスト者に、そしてすべてのキリスト者に、重荷を負い、涙を抱えていたとしても「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と告げることができるのか分かってくるのです。使徒ペトロは地上を歩まれた主イエスに従って共に歩みました。十二弟子の中で一番弟子でした。しかしその彼が、主イエスの十字架を目前にして、三度主イエスを知らない、と言ったのです。「あなたのためなら命を捨てます」と言っていたにもかかわらず、主イエスを信じ続けられず、愛し続けられなかったのです。ヨハネによる福音書では、復活したキリストがペトロに「わたしを愛しているか」と三回尋ねたことが語られています。その度にペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」ではなく、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えているのです。ペトロは主イエスの十字架を前にして、主イエスに従い続けることが、主イエスを信じ愛し続けることができませんでした。しかしそのようなペトロのために主イエスは十字架で死んでくださったのです。そのことによって、ペトロは主イエスがどこまでも自分を愛してくださっていることを知らされました。信じることも愛することもできず裏切ってしまった、罪と弱さと欠けばかりの自分を、主イエスが愛してくださっていることを知らされたのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とは、その主イエスの愛にとらえられているからこそ、自分は主イエスを愛することができる、そのことを主イエスは知っていてくださる、ということではないでしょうか。ペトロは自分の力で主イエスを愛しているのではありません。彼は自分が主イエスを信じられず愛せない弱さを持っていることを誰よりも知っていました。彼が主イエスを愛せるとしたら、主イエスが彼を愛してくださったからであり、今も愛し続けてくださっているからです。主イエスの愛にペトロがとらえられ、その愛の内に彼の人生のすべてが入れられているからなのです。
主われを愛す
小アジアの諸教会の人たちも、そして私たちもペトロと同じです。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じ」るとは、私たちが自分の力や頑張りによってキリストを愛し、信じているということではなく、目に見えないキリストが聖霊の働きによっていつも私たちと共にいて、私たちを愛してくださっているから、私たちは見えないキリストを愛し信じることができる、ということにほかなりません。私たちがよく親しんでいる讃美歌に「主われを愛す」があります。そこでは繰り返し「わが主イェス、わが主イェス、わが主イェス、われを愛す」と歌われています。私たちの主イエス・キリストが、私たちを愛してくださっている。だから私たちは主イエスを愛することができるのです。重荷を負い、悲しみを抱えて歩む中で、私たちは度々、目に見えないキリストを愛せなくなることがあり、信じられなくなることがあります。しかし私たちの信仰と愛の根拠は私たち自身にあるのではなく、キリストにあります。私たちの信仰と愛は、本来私たちが持っているものではなく、キリストが与え続けてくださっているものなのです。愛せなくなっている、信じられなくなっていると思えるようなときも、主イエスは私たちを変わることなく愛し続けてくださっています。私たちはこのことに目を向けます。自分の愛や信仰の弱さや足りなさではなく、キリストの愛の揺るがなさ、その大きさに目を向けるのです。そのことによってこそ私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」歩んでいくことができるのです。
神がキリストによって私たちに何をしてくださったか
キリスト者は、死者の中からのイエス・キリストの復活によって新たに生まれさせられた者です。しかし新たに生まれさせられたキリスト者とは、どんな試練にあっても、自分の力で希望を持つことができ、目に見えないキリストを愛し、信じられる者ではありません。むしろ私たちキリスト者は、ペトロがそうであったように、自分の力では決して希望を持ち続けられない、キリストを愛し続けられない、信じ続けられないと知っている者です。そしてそのような罪と弱さと欠けを抱えている私たちをキリストが愛してくださっていると知っている者なのです。本日の箇所は、一見、小アジアの諸教会に連なる人たちが、そしてすべてのキリスト者が、何ができるかを見つめているように思えます。キリスト者は「生き生きとした希望」を持つことができ、試練の中でも心から喜ぶことができ、目に見えないキリストを愛し、信じることができる、というようにです。しかしそうではありません。ここで見つめられているのは、私たちが、何ができるかではなく、神がキリストによって私たちに何をしてくださったかなのです。神はキリストの十字架と復活によって、私たちに「生ける希望」を与えてくださっています。その「生ける希望」の働きによって、神は終りの日の喜びを、「今」を生きる私たちに起こしてくださっています。キリストは私たちを愛し続けてくださり、その愛にとらえられた私たちが目に見えないキリストを愛し、信じ続けられるようにしてくださっています。9節にあるように私たちが「信仰の実りとして魂の救いを受けている」からです。神がキリストによって約束してくださっている終りの日の救いの喜びを、今、私たちは「信仰の実りとして」すでに味わっているのです。だから重荷を負い、悲しみを抱きつつ今を生きる私たちは、終りの日の救いの完成の喜びを待ち望み、「信仰の実りとしての魂の救いを受け」、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じ」、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」歩むことができるのです。