主日礼拝

平和な生活を送るため

説 教「平和な生活を送るため」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 エレミヤ書第29章4-7節
新 約 コリントの信徒への手紙一第7章1-16節

聖書協会共同訳を読むことによる新しい気づき
 私たちの教会では4月から教会の礼拝や集会で使用する聖書を、『新共同訳』から『聖書協会共同訳』に変更します。聖書の翻訳の変更は、常に神様の言葉を新しく聞き続けようとする私たちの信仰の表れです。私たち一人ひとりも、教会も常にみ言葉を新しく聞くことによって絶えず新しくされ、改革されていきます。具体的に言えば、み言葉を新しく聞くことによって新しい気づきが与えられ、神様の恵みを新たに示されたり、あるいは今までの思い込みに気づかされたりするのです。

 本日の箇所、コリントの信徒への手紙一7章1~16節も、『聖書協会共同訳』を読むことによって、『新共同訳』で読んでいたときの思い込みに気づかされる、そのような箇所ではないかと思います。小見出しに「結婚について」とあるように、この箇所では結婚とそれに関連する様々なことについて語られています。その中で、新共同訳では7節に「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とあり、また8節に「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」とあります。これを読むと私たちは、この手紙を書いたパウロは「独身」を勧めているのだな、と思います。ところが聖書協会共同訳を読むと、7節は、「私としては、皆が私のようであってほしい」となっていて、また8節は、「独身の男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです」となっています。「あれっ」と思うのではないでしょうか。新共同訳では「皆がわたしのように独りでいてほしい」「独りでいるのがよい」と言われているのに、聖書協会共同訳では「皆が私のようであってほしい」「私のようにしていられるなら、それがよい」と言われているからです。聖書協会共同訳を読むことによって、私たちはパウロが「わたしのように独りでいてほしい」と言っているのではなく、「私のようであってほしい」と言っていることに気づかされるのです。その気づきによって私たちは、それならパウロの言う「私のようであってほしい」とは、一体どういうことなのだろうか、と思い巡らします。独りでいてほしい、と言っているのかもしれないけれど、「独り」という言葉はないのだから、それとは別の意味があるのかもしれない、と思い巡らすのです。パウロは、「皆が私のようであってほしい」という言葉によって、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。本日、私たちは1~7節を中心に読むことを通して、そのことを示されていきたいのです。

独身の勧めなのか結婚の勧めなのか
 そもそも新共同訳でも、パウロがこの箇所で独身のほうが良い、と言っているのか、それとも結婚したほうが良い、と言っているのか、どちらなのかよく分かりません。先ほど見たように、7節で「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と言われていて、パウロは独身を勧めているように思えます。ところが2節後半では、「男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と言われています。要するに「結婚しなさい」と言われているのです。そうなるとここでパウロは、一方で独身を、他方で結婚を勧めていることになり、私たちはパウロが何を言いたいのか分からなくなります。ここにこの箇所の難しさがあります。そしてこの難しさは、この手紙の中で7章から新しいまとまりが始まることや、この箇所の背景にあるコリント教会の状況に関わっているのです。

コリント教会の人たちの質問に答えて
 コリントの信徒への手紙一は、7章から別の大きな段落に入ります。1節の冒頭に、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」、とあるように、7章からパウロは、コリント教会の人たちからの質問に答える形で、手紙を書き進めています。パウロがコリント教会を去った後に起こった色々な問題について、コリント教会の人たちがパウロに送った質問状が、この手紙を書く以前に届いていたのでしょう。パウロは7章以下で、それらの質問に答えながら手紙を書いているのです。質問は多岐にわたり、たとえば8章1節には「偶像に供えられた肉について言えば」とありますし、12章1節には「霊的な賜物については」とあります。これらの箇所を読むとき、私たちはパウロが質問に答える形で、手紙を書き進めていることに注意を払う必要があります。私たちが誰かの質問に答えるときを考えれば分かるように、パウロはこれらの箇所であるテーマについて体系的に論じているのではなく、それらの質問に対して、その背景にある教会の問題や課題を見つめつつ、答えようとしているのです。

 パウロがコリント教会の人たちからの質問の中で、最初に取り上げたのは結婚についての質問でした。それは直前の箇所で、コリント教会の中で起こった「みだらな行い」について語られていたことと関係しているでしょう。6章15、16節から分かるように、コリント教会の人たちの中には、性的な欲望を満たすために「娼婦と交わる者」がいました。一方で7章から別の大きな段落に入りますが、他方で、直前のこの問題と結びつけて、パウロはまず結婚についての質問を取り上げたのです。
みだらな行いを避けるため?

 そのことを踏まえて、改めて1、2節に目を向けます。「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。そのように言われると私たちは、パウロが、結婚というのは、みだらな行いを避けるためにするものだ、と言っているように思えます。そうであれば結婚は、消極的な意味しか持たないことになり、いわば「みだらな行い」を避けるための必要悪ということになってしまいます。しかし本当にパウロは、そのようなことを言っているのでしょうか。そうではないと思います。何故なら第一に、先ほど見たようにこの箇所でパウロは、コリント教会の人たちの質問に答えているからです。パウロはここで結婚とは何か、その意味や目的について語っているのではありません。そうではなく結婚によって、結果としてみだらな行いを避けることができる、と言いたいのです。その背景には、もちろんコリント教会で、みだらな行いをしていた人たちがいたことがあります。

結婚は神の祝福のもとにある
 しかし第二に、より根本的なこととして、聖書全体が、結婚は神様の祝福のもとにある、と語っているからです。聖書で結婚の意味を語っている代表的な箇所は創世記2章18節以下です。そこで神様は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。「彼に合う」とは、「彼に向かい合って」という意味です。つまり「彼に合う助ける者」とは、「彼に向かい合い、共に助け合って生きる者」、ということです。ですから「助ける者」とはヘルパーではなく、共に生きるパートナーなのです。そして24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。ここに結婚が見つめられています。結婚は、「人が独りでいるのは良くない」という神様の御心によるものであり、神様の祝福のもとにあります。それゆえ結婚は、消極的な意味しか持たないのではなく、まして必要悪でもなく、むしろ積極的な意味を持っているのです。

 このことは共に読まれたエレミヤ書29章4節以下でも見つめられています。この箇所は預言者エレミヤが、バビロンへ捕囚として連れて行かれた人たちに書き送った手紙の一部です。6節で、捕囚の地にあっても、「妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」と言われています。それは人口減少を避けなさいということではなく、捕囚の地、異教の地にあっても、結婚が、また子孫を与えられることが神様の祝福のもとにある、ということです。異教社会の中で、その影響から逃れるために、やむを得ず結婚しなさい、と言われているのではありません。異教社会の中にあっても、結婚が神様の祝福のもとにあることを信じて、結婚しなさい、と勧められているのです。このように聖書は一貫して、結婚が神様の祝福のもとにある、と語っています。それが聖書の結婚観であり、私たちキリスト者の結婚観でもあるのです。そしてこのことは、パウロにとっても当然のことでした。ですからこの箇所においても、この聖書の結婚観を前提として語っているに違いないのです。

「男は女に触れない方がよい」は誰の言葉なのか?
 そうなると、1節後半の「男は女に触れない方がよい」という言葉が、より一層分からなくなります。新共同訳でも聖書協会共同訳でも、この言葉はパウロの言葉のように読めます。そのために、パウロが「男は女に触れない方がよい」という、いわば禁欲主義を語っていて、しかし「みだらな行いを避けるために」は、やむを得ず結婚しなさい、と言っているように読めてしまうのです。しかしそれは、今見た聖書の結婚観とはかけ離れたものです。実はこの言葉は、英訳聖書を見ると、また一部の日本語訳の聖書でも、コリント教会の人たちの言葉となっています。つまり1節を、「『男が女に触れないことは良いことだ』と、あなたがたが書いてきたことについて言えば」、と読むのです。そうであるならば、話は全然変わってきます。コリント教会の人たちの中に「男は女に触れない方がよい」と言っている人たちがいた。結婚に対して、またパートナーに触れること、つまり性的な関係を持つことに対して否定的な人たちがいたのです。パウロはここで、コリント教会の中で、このようなある種の禁欲主義、独身主義に陥っている人たちに対して、むしろ結婚を勧めているのです。

体を軽視する
 このある種の独身主義は、現代におけるライフスタイルの違いによる独身主義とはまったく異なるものです。今、私たちはライフスタイルの違いから独身であることもあるし、結婚することもあります。しかしコリント教会における独身主義、あるいは禁欲主義は、むしろ誤った信仰理解の表れでした。それにしても不思議に思えるのではないでしょうか。コリント教会にはみだらな行いが起こっていました。「娼婦と交わる者」もいました。そのような中で、それとは真逆のように思える禁欲主義が起こっていることが不思議に思えるのです。性的な乱れが起こっていることに対抗して、「男は女に触れない方がよい」という禁欲主義が起こったのでしょうか。そうではないでしょう。それならパウロはこの禁欲主義を支持したはずです。実は、真逆のように思えるコリント教会の性的な乱れと禁欲主義の根本には、同じ誤った信仰理解があったのです。それは、救われた者は体から解放されていると考え、体を軽視するというものです。一方で、体を軽視して、自分の体を好きなように用いて、みだらな行いをする人たちがいました。その一方で、同じように体を軽視して、結婚を避けたり、あるいは結婚してもパートナーと性的な関係を持つことを避けたりする人たちがいたのです。コリント教会では、体を軽視するという同じ誤った信仰理解から、両極端とも言える性的な乱れと禁欲主義の両方が起こっていたのです。

 私たちは、みだらな行いが自分の体の濫用、体の軽視だと分かります。その一方で性的な欲望について、汚れていると考える傾向があります。しかしそのように考えるなら、私たちもやはり体を軽視していることになります。聖書は根本的に、性的な欲望を汚れているとは語っていません。神様は私たちに体を与えてくださり、それに伴う欲望をも与えてくださっています。もちろんその欲望は、特に性的な欲望は罪の温床になりやすいことも確かです。隣人と自分自身を深く傷つけることが起こります。私たちはそのことを十分に弁え、警戒しなければいけません。しかしだからといって、性的な欲望そのものが汚れていると考える必要はありません。その欲望を神様の御心に従って正しく方向づけていくことが大切なのです。神様は結婚を、しかも体を伴った結婚を祝福してくださり、その結婚生活において、夫婦が性的な関係を持つことを祝福してくださっているのです。

互いに対等で平等な結婚生活
 この聖書の結婚観に基づいて、パウロは、3節以下でこのように語っています。「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません」。ここでパウロが語っているキリスト者の結婚は、妻と夫が完全に対等であり、平等である、ということです。この結婚観は、当時の社会にあってはかなり画期的であったに違いありません。特にコリントという異教社会において、夫婦が完全に対等で平等な結婚というのものは、考えにくいことであったのです。しかしパウロは夫も妻も、同じように相手にその務めを果たし、自分で自分の体を意のままにする権利を持たず、相手がそれを持っている、と語ります。「自分の体を意のままにする権利を持たない」というのは、自分の体を自分の好きなように用いることはできない、ということです。「相手がそれを持っている」と言われているので、それなら相手が自分の体を好きなようにしてよい、あるいは自分が相手の体を好きなようにしてよい、と言われているように思えます。しかしそうではありません。ポイントは「互いに」ということにあります。「互いに」相手が自分の体を持っている、つまり「互いに」自分の体を自分の好きなように用いることはできない、ということなのです。そのことの中で、夫婦は互いに相手の気持ちに寄り添い、ときには互いに忍耐し、我慢することが起こってくるのです。「互いに相手を拒んではいけません」とも言われていました。それは、夫婦が互いに相手と性的な関係を持つことを拒んではいけません、ということです。もちろんそれは、相手に強要して良いということでは決してありません。夫婦が完全に対等で平等であるという前提のもとで、互いを尊重するという前提のもとでこのことは語られています。しかしここで、わざわざこのように言われているのは、コリント教会の人たちの中には、結婚はしていても、体を軽視して、相手との性的な関係を拒んだ人たちがいたからでしょう。パウロはそのような結婚生活をするのではなく、夫婦が完全に対等で平等な、体を軽視しない、心と体がばらばらでない結婚生活を送るようにと言っているのです。

結婚生活の土台は祈り
 そのような結婚生活を送る上で、最も大切なことが、5節の後半でこのように言われています。「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」。ここで言われているのは、祈るためには、一時的に別居しても良い、ということではありません。それぞれが専ら祈りに時を過ごすことを、つまり神様と交わりを持つことを最も重んじ、優先しなさい、ということです。祈りには個人的な祈りだけでなく、礼拝も含まれるでしょう。神様を礼拝し、神様に祈ることが、キリスト者の結婚生活において最も大切なことであり、その土台にあることだ、と言われているのです。

異なる賜物、異なる生き方
 このようにパウロは2~5節で、結婚を積極的に肯定し、聖書に基づき、妻と夫が対等で平等な、心と体がばらばらでない結婚生活を送るよう語っています。そうなると私たちは、最初の疑問に立ち返ることになります。2~5節におけるパウロの結婚の肯定と、7節の「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」というパウロの言葉は、どのような関係にあるのか、パウロは結婚を勧めているのか、それとも独身を勧めているのかという疑問に立ち返るのです。その疑問を解く鍵は、7節のパウロの言葉が、聖書協会共同訳では、「私としては、皆が私のようであってほしい」となっていることにありました。パウロが「私のようであってほしい」と言うとき、それは単に独身であることを勧めているのではありません。それが、7節後半から示されます。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。パウロは「人によって生き方が違う」とはっきり語っています。すべての人が独身でいるというような、逆にすべての人が結婚するというような、現実にあり得ないことを語ろうとしているのではありません。一人ひとりに違う生き方がある、と言っているのです。そしてその生き方の違いは、神様がそれぞれに与えてくださる賜物の違いです。私たちはそれぞれに神様から異なる賜物を与えられて生きています。その賜物に応じて、独身の方もいるし、結婚している方もいる。つまり独身も結婚も、神様からの賜物であり、どちらが良いということではないのです。確かにここでパウロは、コリント教会からの質問に答える形で結婚について語っています。キリスト者の結婚生活を語ってもいます。しかしパウロが、ここで本当に語りたいのは、独身と結婚のどちらが良いのかということではなく、キリスト者一人ひとりに、神様から与えられた賜物に応じて、違った生き方が与えられているということなのです。パウロが言う、「私のようであってほしい」とは、神様が与えてくださった賜物と、神様が今、与えてくださっている状況に感謝して生きてほしい、ということです。今の自分の状況を神様の恵みの賜物として受けとめ、感謝して喜んで生きてほしい、ということなのです。

 しかし私たちはしばしばこのことを見失ってしまいます。結婚している人は、独身の人が羨ましく思えたり、逆に独身の人は、結婚している人が羨ましく思えたりします。独身と結婚に限らず、私たちは自分の人生とほかの人の人生を比べて、あの人のような人生を送りたかった、なんで自分はこんな人生を送っているのだろう、と思ったり、あの人よりは自分のほうがマシな人生を送っている、と思ったりするのです。この社会の多くの人が、「人によって生き方が違う」ということを認めるでしょう。しかしそれを認めたとしても、そこで起こっているのは、お互いの生き方を比べ合うことです。それに対してパウロは、人によって生き方が違うのは、それぞれに与えられている賜物が違うからだ、だからその生き方や賜物を比べ合うのはやめて、自分に与えられている賜物に、今、自分に与えられている状況に感謝して、喜んで生きていくよう語っているのです。私たちは自分とほかの人の人生を比べて、不平や不満に駆られて生きるのではなく、神様が私たち一人ひとりに与えてくださっている賜物と、今の状況に感謝し、喜んで生きるよう招かれているのです。

平和な生活を送るため
 そのことが、15節の後半で、「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」と言い表されています。この言葉が前後の文脈の中でどのような意味を持っているかは次回見ることにしますが、しかしこの箇所全体が、結婚とそれに関連する様々なことについて語りつつ、何よりも神様が私たちを平和な生活を送るために召してくださったことを語っています。その平和とは、主イエス・キリストの十字架によって実現した、神様と私たちとの間の平和です。かつて私たちと神様との関係は、私たちの罪によって破壊されていました。私たちは神様との間に平和を持つことができず、神様と共に生きることができなかったのです。その私たちのために神様は独り子イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架に架けて私たちの罪を赦してくださり、神様と私たちとの関係を回復してくださり、神様と私たちとの間に平和を実現してくださったのです。この主イエス・キリストによって与えられている平和の中でこそ、私たちは自分の今の状況を、神様が与えてくださった恵みの賜物として受けとめ、感謝し、喜んで生きていくことができます。独身であっても、結婚していても、私たちはそれを神様が与えてくださっていることに感謝し、神様にお仕えしていきます。生き方や賜物を比べ合うのをやめて、自分に与えられている賜物に感謝し、それを用いて、神様のご栄光を現すために生きていくのです。

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